赤松氏範(読み)あかまつうじのり

精選版 日本国語大辞典 「赤松氏範」の意味・読み・例文・類語

あかまつ‐うじのり【赤松氏範】

南北朝時代武将則村の子。南朝につき、京都攻略。後に播磨清水に兵を起こしたが敗れ、討死。元徳二~至徳三=元中三年(一三三〇‐八六

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朝日日本歴史人物事典 「赤松氏範」の解説

赤松氏範

没年:至徳3/元中3.9.2(1386.9.25)
生年:元徳2(1330)
南北朝時代の武将。則村の4男。弾正少弼。足利尊氏・直義が争った観応の擾乱最中の観応2/正平6(1351)年7月,兄則祐と共に赤松宮(護良親王の子)を奉じて南朝に属したが,翌年3月,兄共々北朝に復帰。しかしまもなく氏範のみは南朝に戻り,文和2/正平8年6月,南朝の公家四条(藤原)隆俊と京都を攻撃する。延文5/正平15年,赤松宮と共に賀名生(奈良県吉野郡)を焼き打ちして南朝にも反旗を翻すが敗れて逃亡。その後再び南朝に復し何度か挙兵したがいずれも失敗し,播磨清水寺で敗死した。

(榎原雅治)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤松氏範」の解説

赤松氏範 あかまつ-うじのり

1330-1386 南北朝時代の武将。
元徳2年生まれ。赤松則村(のりむら)の4男。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で南朝に帰順し興良(おきよし)親王にしたがう。延文5=正平(しょうへい)15年興良親王とともに南朝にそむき賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)を焼き打ちするが敗れる。のちふたたび南朝方につき,播磨(はりま)(兵庫県)清水で挙兵したが足利軍に敗れ,至徳3=元中3年9月2日討ち死にした。57歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤松氏範」の意味・わかりやすい解説

赤松氏範
あかまつうじのり

[生]元徳2(1330)
[没]元中3=至徳3(1386).9.2. 播磨,清水
南北朝時代の武将。則村の子,則祐の弟。父の死後兄と不和となり南朝方として活躍した。しかし正平 15=延文5 (1360) 年赤松宮の反逆に加わり南朝に敵対,敗れて播磨に帰り,同国清水で自害した。

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