赤松克麿(読み)アカマツカツマロ

デジタル大辞泉 「赤松克麿」の意味・読み・例文・類語

あかまつ‐かつまろ【赤松克麿】

[1894~1955]社会運動家。山口の生まれ。東大在学中、新人会創立日本共産党創立に参加弾圧にあい転向社会民衆党書記長となるが、国家社会主義に転じ、のち大政翼賛会企画部長。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「赤松克麿」の意味・わかりやすい解説

赤松克麿
あかまつかつまろ
(1894―1955)

社会運動家。明治27年12月4日山口県に生まれる。赤松連城祖父。妹、常子は労働運動家。東京帝国大学法学部在学中、吉野作造の門下となり、のちその女婿となる。1918年(大正7)新人会を創立。大学卒業後、東洋経済新報記者などを経て日本労働総同盟の指導者となり、その左翼化を推進した。1922年日本共産党創立に参加するが、翌1923年の第一次共産党事件以降、熱心に解党を唱え、以前と逆に総同盟の「現実主義」化を推進、その第一次分裂にあたっては右派の中心的指導者となった。1926年(大正15)社会民衆党結成に参加、のち同党の書記長ともなるが、1920年代末より軍の一部と結び付きをもち、1932年(昭和7)社会民衆党を脱党して日本国家社会党を結成した。しかし国家社会主義の立場にも安住せず、日本主義を唱え、1933年国民協会を設立。1937年衆議院議員に当選日本革新党を組織して党務長となるが、同党は新体制運動に際し他党に先んじて解党、赤松は大政翼賛会の企画部長に就任した。敗戦後公職追放となり、追放解除後昭和30年12月13日死亡した。

[赤澤史朗]

『思想の科学研究会編『共同研究 転向 上』(1959・平凡社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「赤松克麿」の意味・わかりやすい解説

赤松克麿 (あかまつかつまろ)
生没年:1894-1955(明治27-昭和30)

新人会出身の社会運動家。山口県に生まれる。赤松連城の孫。東大法学部卒業。在学中吉野作造の影響を受け人道主義の立場から民本主義に近づき,石渡春雄,宮崎竜介らと新人会を組織。卒業後,総同盟の運動に参加し,1922年には日本共産党に入党。まもなく離党し24年の総同盟大会で改良主義的宣言を起草。この間,吉野の次女明子と結婚。26年社会民衆党結成に参加し,30年書記長となった。31年大川周明らと日本社会主義研究所を創設。翌年社会民衆党の国家社会主義化をはかって失敗。脱党後,日本国家社会党を結成。37年代議士となり日本革新党を組織。40年大政翼賛会企画部長となった。民本主義から日本主義まで次々に思想的・政治的立場を転換した変り身の速いタイプの典型的な運動家であった。敗戦後,東洋思想に回帰。著書に《日本社会運動史》(1952)などがある。なお,妹の常子(1897-1965)も労働・婦人運動家である。
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百科事典マイペディア 「赤松克麿」の意味・わかりやすい解説

赤松克麿【あかまつかつまろ】

社会運動家。山口県出身。東大在学中吉野作造の影響のもと新人会を創立,卒業後日本労働総同盟幹部となり,日本共産党創立にも参画。のち転向して総同盟右派に属し,社会民衆党書記長となったが,1932年脱党して日本国家社会党,日本革新党などを結成,1940年大政翼賛会に参加。主著《日本労働運動発達史》。
→関連項目国民協会三月事件

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤松克麿」の意味・わかりやすい解説

赤松克麿
あかまつかつまろ

[生]1894.12.4. 山口
[没]1955.12.13. 東京
社会運動家,政治家。第三高等学校卒業後,東京大学に入り,在学中,宮崎龍介らと新人会を設立,卒業後,新聞記者を経て全日本労働総同盟に加入した。総同盟で調査部長,出版部長を歴任したが,次第にマルクス主義に傾斜,1922年日本共産党の創立に参加した。第1次共産党事件により同党が解党するや,社会民衆党の創立に参加,26年同党書記長に就任したがまもなく脱党。この頃から国家社会主義を目指し,日本国家社会党,日本革新党を次々に創立,37年には代議士に当選した。戦後追放されたが,51年解除された。著書に『日本労働運動発達史』『日本社会運動史』がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「赤松克麿」の解説

赤松克麿
あかまつかつまろ

1894.12.4~1955.12.13

大正・昭和期の社会運動家。山口県出身。東大卒。在学中,宮崎竜介らと新人会を結成。1921年(大正10)総同盟に参加,翌年共産党に入党したが,第1次共産党事件で検挙され,科学的日本主義を主張。以後右派社会民主主義・国家社会主義から日本主義に転向,満州事変を肯定,大政翼賛会企画部長に就任,第2次大戦後公職追放処分となる。追放解除後,日本産業協力連盟理事長に就任したが振るわなかった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤松克麿」の解説

赤松克麿 あかまつ-かつまろ

1894-1955 大正-昭和時代前期の社会運動家,政治家。
明治27年12月4日生まれ。赤松智城(ちじょう)の弟。赤松常子の兄。東京帝大在学中に新人会を結成。卒業後,日本労働総同盟にはいり,共産党創立に参加。のち社会民衆党書記長。昭和8年日本主義をとなえ,国民協会を設立。12年衆議院議員。昭和30年12月13日死去。61歳。山口県出身。著作に「日本社会運動史」など。

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世界大百科事典(旧版)内の赤松克麿の言及

【国民協会】より

…【坂野 潤治】(2)昭和期の日本主義団体。1933年日本国家社会党の赤松克麿は日本主義を唱えて同党を排除されたため,大日本生産党を脱した津久井竜雄,倉田百三らと文化運動機関として結成し,《国民運動》を機関誌とした。青年に向けて運動を行ったり,天皇機関説攻撃などを展開したが勢力は弱かった。…

【三月事件】より

…建川美次参謀本部第2部長をはじめ二宮治重参謀次長,杉山元陸軍次官,小磯国昭軍務局長ら宇垣周辺の陸軍首脳部は橋本らに呼応し,積極的に画策をすすめた。計画は参謀本部支那課長重藤千秋大佐が中心となって作成し,右翼の大川周明,社会民衆党の赤松克麿,亀井貫一郎らとも連携,徳川義親から20万円の資金をえた。計画では3月20日ごろ右翼・無産団体を動員して議会にデモをかけさせ,議会保護を名目として出動した軍隊の圧力により内閣を総辞職に追い込み,宇垣内閣を出現させる予定であった。…

【社会民衆党】より

…結党後,左派の門戸開放運動がすすみ地方を中心に左派が党内に進出してくると,総同盟や官業労働総同盟など右派勢力の代表は同党を脱退し,安部磯雄,吉野作造,堀江帰一の呼びかけに応じるというかたちで,同年12月5日に社会民衆党を結成した。その方針は,現実主義,反共主義,合法主義の社会民主主義路線を旗印に,総同盟,官業労働総同盟,全日本農民組合総同盟などを主要基盤とし,委員長に安部磯雄,書記長に片山哲(1930年から赤松克麿)が就任した。同党は28年の初の普選による総選挙で片山,鈴木文治,西尾末広,亀井貫一郎を,30年選挙で西尾,片山を,32年選挙で安部,亀井,小池四郎を当選させ,組織的には左派や中間派無産政党に比較して安定していた。…

【新人会】より

…東京帝国大学の学生を中心とする思想運動団体。1918年12月5日,吉野作造の弟子麻生久,赤松克麿,宮崎竜介らが新しい思想の伝達者,社会改造の担い手をめざして結成,翌19年2月には機関誌《デモクラシイ》を創刊した(1920年2月《先駆》,同年10月《同胞》と改題)。同月には東京亀戸の工場地帯に入り共産党指導者となる渡辺政之輔を中心とする分会を設立したのをはじめ,全国各地に支部を設けた。…

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