赤曜会(読み)せきようかい

世界大百科事典(旧版)内の赤曜会の言及

【今村紫紅】より

…紫紅はやまと絵から出発,宗達風のおおらかな画趣に印象派の感覚をとりいれ,さらに天心らが軽視していた南画を印象派に先行するものとしてとりあげた。また同14年速水御舟,小茂田青樹らと赤曜会を組織して目黒夕日ヶ丘にて野外展を催すなど,豪放磊落(らいらく)な性格をもって後進を指導した。美の反面である醜をも積極的にとりあげて自我の表現を主張,現代画に通じる道を開いた役割は大きく,その生涯は大正デモクラシーのさきがけをなすものがある。…

【速水御舟】より

…禾湖時代から巽画会,紅児会にやまと絵風あるいは琳派風の作品を発表。《萌芽》によって原三渓らにその才能を認められ,15年日本美術院が再興されると,兄弟子今村紫紅を指導者とする赤曜会の新鋭として再興院展に参加。紫紅の〈南画は印象派よりも印象的〉という新南画の理論を実践し,明るい色彩,大胆な構図,新鮮なモティーフの《近村》を発表,ついで17年京都に取材した《洛外六題》(1923焼失)は横山大観,下村観山らに激賞され,23歳で院展同人に推された。…

※「赤曜会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」