赤川村(読み)あかがわむら

日本歴史地名大系 「赤川村」の解説

赤川村
あかがわむら

[現在地名]中条町赤川

胎内たいない川左岸扇状地の中央部にあり、北は宮瀬みやぜ村、西は山王さんのう村、東は西条にしじよう村に接する。

仁治二年(一二四一)一一月一四日の津村尼譲状案(山形大学所蔵中条家文書)に「まんところてうあかゝはのむら」とみえる。同譲状では政所まんどころ条を含む奥山おくやま庄の大部分は子息三郎時茂に、高野たかの条は四郎茂村に譲られている。ただし時茂分の政所条赤川村内に胎乃たいの(胎内川)北岸の高野条に属する田畑があり、この地は津村尼の領地として生存中は茂村が沙汰し、尼の死後は政所条に付属させ時茂が沙汰するように決められた。その時には高野と赤川の境は胎乃河の北岸に置くよう言い置かれた。建治三年(一二七七)の高井道円(時茂)譲状案(中条町役場所蔵文書)では奥山庄内の羽黒はぐろ並槻なみつきなど九ヵ所とともに、時茂から孫の茂連に譲られている。また同年一一月五日付の同譲状(山形大学所蔵中条家文書)でも左衛門三郎義頼(茂連)へ譲られ、弘安元年(一二七八)鎌倉幕府から安堵されている(同年五月一八日「鎌倉将軍家(惟康親王)政所下文」同文書)。

赤川村
あかがわむら

[現在地名]旭区赤川一―四丁目、都島みやこじま大東だいとう町一―三丁目・高倉たかくら町一―三丁目・友渕ともぶち町一―三丁目

東成ひがしなり郡に属する南北に細長い村で、北は大きく湾曲しながら西流する淀川を隔てて西成にしなり新家しんけ(現東淀川区)に対する。集落は村域北部に集中。「摂津志」にも記すように平安時代以降榎並えなみ庄に含まれたと考えられ、満願まんがん(兵庫県川西市)所蔵大般若経巻五二の嘉禄元年(一二二五)の奥書に「榎並赤河村書写執筆覚賢之」と村名がみえる。「東成郡誌」によると、村名はかつて当地にあったという天台宗赤川せきせん寺にちなむといわれ、「大門」の地名も残るという。同経巻四一〇には寛喜元年(一二二九)の「西成郡榎並下御庄大金剛院住一筆願主覚賢」の奥書があり、赤川寺はこの大金剛だいこんごう院の俗称と考えられる。

赤川村
あかがわむら

[現在地名]函館市赤川町・赤川一丁目・美原町みはらちよう一―五丁目・亀田中野町かめだなかのちよう

近世から明治三五年(一九〇二)までの村。亀田川中流域にある。近世は東在の村で、天保郷帳に赤川村とみえる。正徳年間(一七一一―一六)に開拓が始まったという(各村創立聞取書)。天明元年(一七八一)の松前広長「松前志」に村名がみえる。「蝦夷巡覧筆記」に「馬アリ 上山村端ヨリ右手野道少シ行キ」と記される。「蝦夷日誌」(一編)によると人家五〇軒、生業は畑を耕し山稼や海辺に出稼。嘉永二年(一八四九)字原前で工藤嘉兵衛が八段の水田を開いたとされる(亀田上磯郡地方米作概況)。「検考録」では四六戸。

赤川村
あかがわむら

[現在地名]福島市成川なりかわ

成田なりた村の西に位置。平坦地で、南西端を米沢に至る街道が通る。大永七年(一五二七)一〇月二三日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、高成田蔵房に信夫しのぶ庄「赤川之郷」のうち殿内年貢二貫文之所・寺内年貢二貫五百文之所・篠屋内などが安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「御はんの所」のうちとして「あく川」とみえ、段銭は八貫二〇〇文。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五一一石余。近世初期の邑鑑によると高五一〇石余、免二ツ、家数一六(役家七・肝煎一・脇家八)、人数四八、役木として桑少しがある。

赤川村
あかがわむら

[現在地名]朝日町赤川

川河口右岸にあり、北は日本海に面し、東は東草野ひがしくさの村、南は西草野村、西の小川対岸は古黒部ふるくろべ(現入善町)。赤川浦は米穀などの積出港であり、元和五年(一六一九)荒屋あらや(現富山市)の三介はとまり町や宮崎みやざき村などの米を当地で受取っている(「三介組借米渡口覚」三辺家文書)。明暦二年(一六五六)の藩倉は奥行四間・長さ一二間であった(「島尻村刑部日記」伊藤家文書)

赤川村
あかがわむら

[現在地名]羽黒町赤川

三橋みつはし村の西、北流する赤川右岸に位置する。赤河とも記した。北方押口おさえぐち村から南下する羽黒街道は当地で東に向きをかえ、三橋村に抜ける。赤川対岸のつるおか城下とを結ぶ菅川原すがわら渡があった。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録では高二九〇石余。正保郷帳では田高二〇二石余・畑高三〇四石余、ほかに社領(羽黒権現社領)七斗余。弍郡詳記では高三〇六石余、免二ツ五分五厘、家数三五。

赤川村
あかがわむら

[現在地名]鳥栖市酒井東町さかいひがしまち字赤川

対馬藩の藩政期には酒井村の枝村で東村に属し、親村の南方一・五キロ、宝満ほうまん川の東側に位置し、東は筑後との国境である。文禄四年(一五九五)の検地では六五石、慶長検地では七八石余と、ともに高付けされた村であるが、元禄絵図では酒井村の内となっている。宝満川の氾濫常襲地で、正保三年(一六四六)の郷村帳写(基養精細録)に「六拾五石皆畠高 赤川村水損所」とある。文政九年(一八二六)現在では「基養精細録」に内検高一七二石余、田方八七石余、畠方六〇石余とあって数字は合わないが、かなり開発が進んだことがわかる。

赤川村
あかがわむら

[現在地名]小郡市赤川

宝満ほうまん下流左岸に位置し、北は東福童ひがしふくどう村、北東は上西鰺坂かみにしあじさか村などに接する。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊充行知行方目録(萩藩閥閲録)では三井みい郡「あかかわ村」の二四二石余など一千九〇〇石が杉元式の領知となっている。久留米藩領古図に赤川村とあり、高三〇四石余。本高は二〇四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二七四石余・役高五六四石。

赤川村
あかがわむら

[現在地名]横手市赤川

東は三本柳さんぼんやなぎ村に接し、大森街道に沿う。天正一八年(一五九〇)八月、角館かくだて(現仙北せんぼく角館かくのだて町)城主戸沢光盛領の三五ヵ城破却の際「平鹿郡之内 黒川、田村、赤川」(新庄古老覚書)とある。

文政(一八一八―三〇)頃、家数一八戸(雪の出羽路)、文化一二年(一八一五)に高一四八石三升七合(秋田風土記)の小村とあり、隣村猪岡いのおか村の兼帯肝煎であった(雪の出羽路)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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