赤塚城(読み)あかつかじょう

日本の城がわかる事典 「赤塚城」の解説

あかつかじょう【赤塚城】

東京都板橋区にあった平山城(ひらやまじろ)。同区史跡。千葉氏の本城の亥鼻城(千葉市)は1455年(康正1)、一族馬加康胤重臣の原胤房らに急襲され、千葉氏当主の千葉胤直・胤宣父子は城を脱出したが、その後敗れて討ち死にし、千葉宗家は滅亡した。このとき胤直の弟の千葉胤賢は子の実胤・自胤兄弟を連れて脱出。その後、胤賢は自刃したが、実胤・自胤兄弟は市河城(千葉県市川市)に逃れた。しかし、翌年、市河城は古河公方足利成氏方の簗田持助に攻められて落城したため、兄弟は武蔵国へと逃れた。赤塚城は武蔵へと落ち延びた自胤が築城した城といわれている。一方、兄の実胤は石浜城(台東区)を居城とした。自胤の家系は以降、武蔵千葉氏と呼ばれる。自胤は外戚で扇谷上杉氏重臣の太田道灌麾下の武将となった。その後、兄実胤が隠棲したため石浜城主となり、幕府より千葉氏当主としての地位を認められたものの、千葉輔胤・孝胤父子は本佐倉城(千葉県印旛郡酒々井町~佐倉市)を築城するなど下総の地盤を固めつつあった。自胤は太田道灌の支援を受けて、1478年(文明10)、千葉孝胤追討を行い、境根原合戦で勝利した後、臼井城(佐倉市)を落城させ、下総・上総の大半を制圧した。しかし、下総・上総に支持勢力を持たなかった自胤は千葉氏当主になることはできず、結局、孝胤の子孫家督を受け継いでいくことになる。その後、道灌が暗殺されると、自胤は小田原北条氏に属した。1590年(天正18)の小田原の役で北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、赤塚城も廃城になった。残念ながら、遺構は現存しない。かつて本丸のあった小高い丘の麓には、板橋区立赤塚溜池公園、板橋区立郷土資料館、板橋区立美術館がある。この溜め池は、かつての赤塚城の内堀だったとされている。東武東上線成増駅から徒歩約18分、または下赤塚駅から徒歩約22分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android