賦役(読み)ブエキ

デジタル大辞泉 「賦役」の意味・読み・例文・類語

ぶ‐えき【賦役】

《「ふえき」とも》
近代以前の社会で、農民が領主から課せられた労働と地代
ぶやく(夫役)

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改訂新版 世界大百科事典 「賦役」の意味・わかりやすい解説

賦役 (ふえき)

君主や領主への農民の負担が,現物や貨幣の支払によるのではなく,生の労働の形で提供される場合,これを賦役という。

賦役は,英語でlabour service,ドイツ語でFrondienst,フランス語ではcorvéeという。前近代のヨーロッパの社会に広く存在するが,直接生産者の大多数が小経営を行う農民であった,中世の封建社会で典型的に現れ,領主制における主要な負担形態の一つとなる。封建領主による土地保有農民からの剰余労働収取を地代(封建地代)とする場合には,賦役は労働地代として,生産物地代貨幣地代と並ぶ前資本制地代の主要な一形態とされる。

 ヨーロッパにおいて,賦役の先駆的形態は,古代社会の解体過程で奴隷が土地を獲得し,奴隷主のための労働が週日の一部に制限されることを通じて現れたが,それが本格的に普及したのは,領主制が古典荘園制と呼ばれる形態をとった,中世初期である。そこでは,所領が領主直営地と農民保有地とから成っていたが,前者に必要な労働の大部分は,後者を耕作して生活の資を得ていた農民による賦役として調達された。領主は犂耕,播種,刈取りなどの穀作のための労働,菜園地での作業,家畜の世話など,あらゆる農業労働に農民を動員したのみならず,警備,建築,パン焼き,婦女子による織物や裁縫など,領主の家経済に必要なさまざまな労働をも賦役として確保した。農民をしばしば遠隔地まで移動させる運搬賦役は,領主経済を商品・貨幣流通と結びつける主要な手段であった。個々の農民に対して,賦役は週に3日というように労働日数のきわめて大きな部分を占めており,しかも,領主直接経営の労働需要には変動が大きかったから,賦役収取には不定量的性格がつきまとっていた。そのうえ,農民は自己の役畜や農具を賦役に携行しなければならず,また世帯主以外からの労働が要求されることも多かったから,賦役は農民経営を攪乱するものであった。このような賦役労働に従事しながら,領主の個別人身的な支配に服する農民層が農村住民の典型的形態となり,これをふつう農奴と呼ぶ。

 しかし,他方で,農民は事実上農民保有地を世襲しており,また,通例家族内部には複数の働き手がいたから,賦役の重圧にもかかわらず,自己の農業経営を維持することができた。領主もこうした農民の自立性を考慮する必要があり,そのため,賦役の一部は当初から,領主直営地の特定部分を請負耕作する定地賦役として,個々の農民の差配にゆだねられていた。週賦役の日数も慣習的に固定化する傾向を強めていき,やがては年間の賦役日数を定めて,それを農繁期を中心に収取する,年賦役の方向を取るようになる。このように中世初期には,農民が領主経営と農民経営のいずれについても主たる労働力となっており,賦役は両者の対立と結合の接点であった。

 中世盛期から後期にかけて,賦役は農民層の経済的・社会的地位が向上するに応じて,農民負担の主要な部分ではなくなった。定地賦役は,請負耕作される領主直営地をしだいに農民保有地に転化させつつ,穀物による給付に変化していったが,フランスでは1000年ころ,ドイツではやや遅れて一般化した純粋荘園制のもとでは,領主直営地は著しく縮小され,農民の領主への義務は,現物ないし貨幣の支払という形をとることになった。賦役がまったく消滅してしまう場合も多く,存続する所領でも,農民1人当り年間10日以下へと大幅に軽減されてしまう。確かに,領主直接経営は各地で存続しており,その一部は商業的農業として行われていたから,賦役がなお大きな役割を果たすことがありえた。例えば,13世紀のイギリスでは,遠隔地に穀物を販売しようとする大領主が,農民からの賦役労働を増徴し,一部で週賦役が広がった。しかし,総じて11世紀以降のヨーロッパでは,所領経営のために収取される賦役は,農民負担の小部分を占めるにすぎなかった。これに代わって,領域的支配を広げる有力領主,ことに国王や領邦君主が,支配領域の整備や防衛のために住民全体から徴収する賦役が,いわば公権力のための給付として整備されてくる。主として防衛・交通施設の建設と維持に用いられ,戦時の徴用と重なり合うこの賦役は,時期による変動が大きく,ときには農民からの激しい抵抗の対象となったが,量的にはやはりそれほどの重圧ではなかった。

 近世になっても西欧では,賦役はなお残存し,ときには農奴身分の象徴とされることもあったが,全体としての意味は小さく,市民革命期に消滅してしまう。しかし東欧では,16世紀以降中世初期に劣らないほど賦役の意義が増大する。西欧で拡大する農産物需要を目当てに市場向けの農業生産を行うべく,領主は農民保有地を犠牲として領主直営地を拡大し,週賦役の形をとるまでに賦役を増徴したからである。この場合にも,農民は賦役に生産用具を携行し,婦女子も領主経済に協力しなければならなかったから,農民経営の自立性は著しく攪乱され,農民は再版農奴制と呼ばれる劣悪な地位に落とされた。こうして,賦役が農民負担の主たる形態となった東欧では,19世紀に上から進められた近代化が,その廃止(農奴解放)を大きな課題としなければならなかった。
執筆者:

中国では前近代の社会における公課である賦税と徭役を総称して一般に賦役という。しかし,古くは〈賦〉は軍賦を指し,君主が臣下から徴発する兵役と軍需品を意味した。春秋時代後期から各国ではおいおい田畝から賦を徴収するようになり,賦と税が混同していった。秦・漢以後は,戸口を按じて徴収する税を賦といい,それと別に丁男を徭役に徴発したので,賦と役ははっきり区別されるようになった。下って明代に一条鞭法が施行されてから,戸口を按じて徴発する徭役分を銀両で徴収するようになり,つづいて清初には丁男から徴収する丁銀を田地から徴収する田賦に繰り入れるにいたり,賦役と賦税は同義となり,内容は地丁銀ほかならなくなった。すなわち賦役の語は,おおまかにいって一つは徭役,二つは田賦すなわち土地税と徭役の両者を意味する意義の変遷があったのである。秦・漢から明代中期では,賦役は徭役を意味したので,ここでは徭役(力役(りきえき)ともいう)の意味で,そのありようをみる。

 徭役は国家の賦課する義務労働で,田賦とならぶ人民の二大負担となっていた。賦課対象となるのは成人男子であるが,対象年齢は王朝によって異なり,漢代は23歳から56歳まで,唐代は18歳から60歳まで,明代は16歳から60歳までなどとなっている。内容からいえば,兵役をはじめ,政府の必要とする土木作業,行政運営に必要な各種の労働,および宋代以後には民戸の戸数割組織の役員も重要となる。ただし具体的な内容や賦課方式については,王朝によって差異があるので,以下いくつかの王朝について略説するが,全体としてみるなら,実労働の負担から代納とくに金銭によるそれへの移行が大勢である。

 漢代の徭役は,該当年齢期間33年の間に,兵役たる戍卒(じゆそつ)とその他の力役を併せて,2年間服役することになっており,別に更卒という役があって,漢初には数年ごとに5ヵ月間服役した。これは武帝のときに毎年1ヵ月と改められ,同時に戍卒と力役は更賦300銭を納めることによって免除されることもあった。

 魏・晋以降,兵制(軍制)の中心が世襲の兵戸に移り,兵役の徴発は非常時に限られたが,在地州県での徭役は年間20~30日を標準とし,なお官人の従僕や種々の公務に差遣(さけん)される色役(しよくえき)/(しきえき)も漸次発達した。品官以上の支配層は免役の特権をもち,商人など財力ある者が免役の士身分にまぎれこむ偽濫(ぎらん)も多くなった。北朝では六丁兵,八丁兵,十二丁兵という交代制の徭役に徴発されたが,隋・唐では兵農一致の府兵制が整備されるにつれ,賦役はふつう兵役を除く力役を指称するようになる。

 すなわち隋・唐の均田制下の人民の負担には,租庸調雑徭(ざつよう)があった(均田法)。このうち庸というのが本来は力役であり,正役または歳役と呼ばれて,年に20日間中央政府の行う土木事業に従事した。これが絹(布帛)で代納されることになったのが庸である。また雑徭は地方的な土木事業に服し,その期間は年に40日以内であった。そのほかに番役と呼ばれるものがあり,行政運営に必要な各種の労役に交代で服務した。その期間は最高120日で,服役期間に応じて他の義務を免除されたが,後には必要な行政運営の労役は雇役に頼る傾向が強まり,代納が認められて資課と呼ばれた。両税法の実施以後,庸は両税の中に吸収された。

 宋代になると,郷村の民戸組織にともなう里正などの役が重要になり,職役(しよくえき)と呼ばれている。その内容は,徴税(里正,戸長,郷書手)や治安維持(耆長,弓手,壮丁)をはじめとし,官物の輸送(衙前)などにも当たった。また唐代の番役に相当する官庁の各種労務(承符,人力,手力,散人)も依然として存在した。衙前,里正は負担が重く,しばしば破産するほどであった。ただし徭役の負担は農村居住の郷戸だけを対象とし,都市居住の坊郭戸が免除されていたことである。賦課の基準は主として資産によって区分された5等級の戸等であった。官人などの支配身分の者は一定範囲で免役の特権をもち,そのため社会問題を惹起し,この矛盾の解決をはかった王安石の募役法は,徭役に服する代りに免役銭を納めさせ,また従来,役を免除されていた者にも助役銭を出させ,これらを財源として必要な労働力を雇用するものであった。流通経済の発展にともなう合理的な改革であったから,王安石の失脚後一時廃されたこともあるが,やがて復活して南宋時代にも維持された。ただし,治安維持を主眼としたはずの保甲組織の役員である保正,保長らが徴税にも関与するようになって,職役は結局解消しなかった。

 元代にも,里正,主首あるいは社長など,郷村組織の役員が重要な意味をもった。しかし元代においてとくに注目されるのは,特定の徭役を負担する戸を定めて,戸籍上他と区別したことである。匠戸,站戸(たんこ),鋪兵戸,弓手戸などがそれである。匠戸は技術者で官営工場などの労働に服し,站戸は駅伝の,鋪兵は早飛脚の労役を果たし,弓手は治安維持のために置かれた警官のようなものである。

 明初には田土面積を基準として徴発される均工夫という徭役があり,国都の造営工事に従事した。内容的には唐代の歳役に相当するものであるが,造営工事の一段落とともに大幅に縮小された。他の徭役に関連して注目されるのは,徭役の種類によって戸籍を区別するという元代の方式が受け継がれたことである。すなわち,戸籍を4種に分けた。兵役を負担する軍戸,技術労働を負担する匠戸,製塩労働に従事する竈戸(そうこ),および一般の民戸である。民戸の負担する徭役は,里甲組織を単位として賦課され,里長,甲首などは正役と呼ばれて10年に1回,1年間服役して徴税などの仕事に当たる(里甲制)。その他の徭役はまとめて雑役と呼ばれ,駅伝(館夫,水夫),治安維持(弓兵),租税の徴収輸送(糧長),その他官庁の各種労務(皀隷,門子,祗候,庫子,馬夫)に服した。そのうち,駅伝関係以外の雑役については,15世紀半ばころから均徭法によって賦課されることになり,これによって均徭という名称が生じ,里甲,駅伝,それに同じ頃新たに設けられた民壮の役を併せて四差とも称された。一方では徭役の銀納化が進行し,16世紀初葉には均徭の中に銀差と力差の区別を生じた。その他の役をも含めて銀納化がさらに進展すると,徭役銀の一部は田土に,一部は成丁に対して均等割にする方式が普及し,一条鞭法の実施とともに,徭役の銀納化は一応完成したとされる。さらに清代に入って,雍正年間(1723-35)に実施された地丁併徴(丁随地起)は,成丁の負担を廃して丁銀相当額を土地税に繰り入れ,単一税としての地丁銀を実現した。ここに大負担の一つである徭役は,制度上完全に消滅したのである。
執筆者:

日本古代の律令制において,賦は斂(収める)の意で,調・庸,義倉・諸国貢献物など,役は使役の意で歳役,雑徭などをいい,これを総称して賦役(ぶやく)/(ふやく)または課役(かえき)とも称した。荘園制社会や中世・近世における夫役(ぶやく)は,公事(くじ)に含まれる種々の力役をはじめとし,おもに労働力徴発を意味した。詳しくは〈夫役〉の項目を参照されたい。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「賦役」の意味・わかりやすい解説

賦役
ふえき
labour service 英語
Frondienst ドイツ語
corvée フランス語

西洋で10世紀前後の古典荘園(しょうえん)に顕著とされる地代形態。農民が荘園領主から農地を借りて保有(永代小作)する代償として、領主直営地で無償労働を強制されたもので、労働地代ともいう。毎週3日の賦役という事例がかなり多く、過酷な地代負担といわれる。しかしこの週賦役は農民保有地1フーフェ(10~15ヘクタール)当りの賦役量で、たとえば3分の1フーフェを保有する農民の賦役量は毎週1日、それ以下の小農民の負担はさらに小さかった。他方1フーフェを保有した富農は、数人ずつの奴隷を所有し、賦役の大部分を奴隷に代行させ、ただ1年に数日だけ、富農自身が奴隷1人と馬1頭とを連れて、直営地で犂耕(りこう)賦役に服したのみである。それゆえフーフェ保有農にとって週3日の賦役は、おのおのの家内労働力の10分の1程度の負担にすぎなかった。

 なおフランスの古典荘園では、大半がコロヌス(半自由人)身分の保有農であったが、その約半数と、奴隷身分保有農の全員とが、フーフェ当り週3日もしくはそれに相当する賦役を負担した。他方ドイツでは、古典荘園農民の半数以上が奴隷身分で、一様に週3日の賦役を課されたが、残る半自由身分保有農は、収穫の数%程度の生産物地代を主とし、賦役量は小さかった。さらにドイツでは古典荘園時代には、まだ荘園に属さない自由農民が多数残存したので、農村全体としては、週賦役負担者の比率は、フランスと大差ない。

 フランスでは11世紀以降の地代荘園で、賦役の比重はさらに減少し、生産物地代が優勢になった。ドイツでも13世紀以後のいわゆる地代荘園時代には、一般に賦役は減少した。しかしドイツで荘園領主権が裁判権と地代収取権とに分化し、裁判権所有者(領主)が租税の一種として毎週1日程度の賦役を徴収した事例もある。また東北ドイツでは、16世紀以後かえって賦役が優勢になり、とくに貧農の賦役負担が大きかった。19世紀前半プロイセンで行われた農業改革は、この賦役の有償廃棄を主眼とするものであった。

 イギリスでは13世紀ごろ、とくに南東部で賦役が顕著であったが、14世紀以後、貨幣地代に変えられた。

[橡川一朗]

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旺文社世界史事典 三訂版 「賦役」の解説

賦役
ふえき
①labour service

農奴が支払う労働地代
②中国歴代王朝の税制
農奴は領主の直営地での労働提供を経済外的強制によって要求された。週に2〜3日程度の労働であり,耕作だけでなく運搬・家畜の世話・建築・パン焼きなどあらゆる分野におよんだ。中世後半には生産物地代の比重が高まって徐々に廃止されたが,東北ドイツではグーツヘルシャフト(領主的大農場経営)として16世紀以後逆に強化された。
「賦」は田賦の意で田土を対象とし,おもに農業生産物を徴収する。また,「役」は徭役 (ようえき) ・力役 (りきえき) ともいわれ,人丁に対して課し,おもに直接労働の形で徴収する。制度的に完成したのは租庸調制度であるが,清代における地丁銀制の確立により,賦と役の二本立ては解消した。なお賦役は,力役のみをさす場合もある。

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普及版 字通 「賦役」の読み・字形・画数・意味

【賦役】ふえき

租税と夫役。

字通「賦」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の賦役の言及

【賦役】より

…君主や領主への農民の負担が,現物や貨幣の支払によるのではなく,生の労働の形で提供される場合,これを賦役という。
[ヨーロッパ]
 賦役は,英語でlabour service,ドイツ語でFrondienst,フランス語ではcorvéeという。…

【夫役】より

…労働課役のことで,〈ふやく〉とも読み,〈賦役〉とも書く。
[古代]
 大化以前には氏上(うじのかみ)が氏人(うじびと)に調(財物)と役(労力)を出させた。…

【封建地代】より

…封建社会においては,封建的生産関係が支配的であり,そのもとにおいて,土地の支配者である領主(封建的土地所有者)は,その土地に居住している農民(および手工業者など)から,賦役(ふえき)や年貢(ねんぐ)などさまざまな貢租を徴収する。その賦役や貢租を総称して封建地代という。…

※「賦役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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