賀茂真淵(かもまぶち)(読み)かもまぶち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「賀茂真淵(かもまぶち)」の意味・わかりやすい解説

賀茂真淵(かもまぶち)
かもまぶち
(1697―1769)

江戸中期の国学者、歌人元禄(げんろく)10年3月4日、遠江(とおとうみ)国敷智(しきち)郡浜松庄(しょう)伊場村(もと岡部郷、現、静岡県浜松市中区東伊場)に生まれる。神職岡部政信(おかべまさのぶ)の子(通説三男、真淵の自記では次男)で、名は初め三四、庄助などといい、田安(たやす)家に出仕してから衛士(えじ)。賀茂真淵は雅名で、主として晩年に用いた。屋号を県居(あがたい)という。初め姉婿政盛に養われ、のち従兄(いとこ)政長の養子となる(政長は浜松藩松平家に仕えた武士で、物頭役などを務めた)。妻に死別し、29歳で浜松の脇本陣(わきほんじん)梅谷甚三郎(うめやじんざぶろう)の養子となる。30歳のころから京都伏見の荷田春満(かだあずままろ)に従学し始めたが、かたわら浜松の杉浦国頭(すぎうらくにあきら)(1678―1740)や森暉昌(もりてるまさ)(1685―1752)らに国歌を、渡辺蒙庵(わたなべもうあん)(1687―1775)に漢学を学んで、東海地方の歌人や詩人として名を知られた。1733年(享保18)37歳のとき上京して、春満のもとに長期の遊学を始めたが、1736年(元文1)帰省中春満の死にあい、翌1737年江戸に出府、処士生活を送りながら学事に励んだ。1746年(延享3)50歳のとき、在満(ありまろ)(春満の養嗣子(ようしし))の後を受けて田安宗武(たやすむねたけ)に和学で仕えることになり、生活も落ち着き研究も進境をみせる。1760年(宝暦10)64歳で隠居して、以後、著述生活を主として、多くの著書を残した。1763年大和(やまと)巡りの旅に出、伊勢(いせ)の松坂で本居宣長(もとおりのりなが)に会った。翌1764年住居を浜町に移し、県居と号した。明和(めいわ)6年10月30日、73歳で没す。浜松市中区東伊場の県居神社に祀(まつ)られ、墓碑は東京都品川区東海寺墓地と浜松市にある。

 真淵は契沖(けいちゅう)や春満の後を受けて、独自の国学を築いた。学問は古意、古歌の研究を主眼として広範にわたるが、古代の古典をとくに尊んで、『万葉考』『祝詞考(のりとこう)』(1768成立)以下多くの注釈を残し、『国意考』(1765成立)『歌意考』(1764成立)『語意考』(1769成立)などのいわゆる「五意考(ごいこう)」、『にひまなび』(1765成立)などの論書もある。和歌においては万葉調の意義を強調し、万葉風の作歌に特色を発揮して、門下からも万葉調歌人を輩出した。真淵の歌文集としては、村田春海(むらたはるみ)編『賀茂翁家集』(1806)がある。田安宗武に影響を与えたほか、門下は本居宣長をはじめ県門十二大家や県門三才女(油谷倭文子(ゆやしずこ)(1733―1752)、土岐筑波子(ときつくばこ)、鵜殿余野子(うどのよのこ)(1729―1788))など、多士済々である。

[井上 豊 2018年10月19日]

『『賀茂真淵全集』全28巻(1977~ ・続群書類従完成会)』『小山正著『賀茂真淵伝』(1938・春秋社/複製増補版・1980・世界聖典刊行協会)』『井上豊著『賀茂真淵の業績と門流』(1966・風間書房)』『寺田泰政著『賀茂真淵』(1979・浜松史跡調査顕彰会)』


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