豊田(市)(読み)とよた

日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊田(市)」の意味・わかりやすい解説

豊田(市)
とよた

愛知県中北部にある自動車工業都市。矢作(やはぎ)川が市内中央を貫流し、三河高原岡崎平野との接点に位置する。1951年(昭和26)挙母(ころも)町が市制施行して挙母市となり、1956年高橋村を編入、1959年豊田市改称。1964年上郷(かみごう)町、1965年高岡町、1967年猿投(さなげ)町、1970年松平(まつだいら)町を編入。1998年(平成10)中核市に移行。2005年藤岡町(ふじおかちょう)、小原村(おばらむら)、足助町(あすけちょう)、下山村(しもやまむら)、旭町(あさひちょう)、稲武町(いなぶちょう)を編入。市域は愛知県中北部を広く占める。愛知環状鉄道線、名古屋鉄道三河線・豊田線、愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)、国道153号、155号、248号、257号、301号、419号、420号、473号、猿投グリーンロード、新東名高速道路、伊勢湾岸自動車道、東海環状自動車道、衣浦(きぬうら)豊田道路などが通じ、東名高速道路の豊田インターチェンジ、伊勢湾岸自動車道の豊田東と豊田南の各インターチェンジがある。矢作川の中流部、挙母盆地に中心市街地がある。挙母の地名は『古事記』には許呂母別(ころもわけ)とあり、三河之衣君(ころものきみ)という豪族が住んでいた。平安時代の『和名抄(わみょうしょう)』には挙母郷がみえ、鎌倉時代にも高橋荘(しょう)衣郷(ころものごう)(中条氏支配)があった。江戸時代は挙母藩2万石の城下町として栄えた。明治以後は繭の集散地として栄え、生糸工業もおこったが、養蚕業の不振とともに衰えた。今日のような発展を遂げたのは、1937年(昭和12)刈谷(かりや)から進出したトヨタ自動車が工場を設立してからで、とくに第二次世界大戦後、1950年代に飛躍的な発展を遂げた。典型的な企業城下町である。一方、農業生産も多く、米やナシ、モモ、ブドウの果実、酪農などが盛ん。愛知高原国定公園内に鞍(くら)ケ池公園、猿投山、勘八(かんぱち)峡、王滝渓谷などの景勝地がある。足助八幡宮本殿、長興(ちょうこう)寺の絹本著色仏涅槃(ねはん)図と紙本著色織田信長像などは国の重要文化財に指定されている。国の天然記念物に猿投山の球状花崗(かこう)岩(菊石)など、国史跡に舞木(まいぎ)廃寺塔跡などがある。足助の商家の町並は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、香嵐渓は紅葉の名所として著名。面積918.32平方キロメートル、人口42万2330(2020)。

[伊藤郷平]

『『豊田市史』全13巻(1976~1987・豊田市)』『牧野敏太郎著『挙母郷土史』(1998・豊田市)』


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