講武所
こうぶしょ
幕末期、江戸幕府が軍制改革の一環として設置した軍事の訓練機関。外圧に対する軍制改革を進めるなかで、幕府は1855年(安政2)講武場を創設して、旗本以下の面々に武芸・砲術をはじめとする軍事訓練を行うことを布告したが、その後、この講武場を講武所と改め、翌56年、築地(つきじ)鉄砲洲(てっぽうず)に講武所を竣工(しゅんこう)させた(のち深川越中島(えっちゅうじま)にも調練場を設置)。開業は同年4月13日。講武所規則覚書を公示し、入所手続などを定め、将来は陪臣や浪人にも開放するとした。開業には将軍徳川家定(いえさだ)が老中以下を率いて臨み、以後、幕府の武芸・洋式訓練・砲術などが盛んになった。のち鉄砲洲の構内に軍艦操錬所が設けられたため、講武所は60年(万延1)神田小川町に移され、66年(慶応2)11月陸軍所と改称された。教授として、剣術の男谷(おだに)精一郎・伊庭(いば)軍兵衛・榊原鍵吉(さかきばらけんきち)・桃井(もものい)春蔵、槍術(そうじゅつ)の高橋泥舟(でいしゅう)、砲術の下曽根(しもそね)金三郎・高島秋帆(しゅうはん)・勝海舟(かいしゅう)ら当代の大家が選ばれた。
[田中 彰]
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こうぶ‐しょ カウブ‥【講武所】
江戸末期、幕府の設置した武術練習所。安政元年(
一八五四)江戸築地鉄砲洲に、初の講武場を設置、同三年に竣工。のち神田小川町に移転し、刀槍のほか、水練、
小銃、砲術などの
演習を行なう。慶応二年(
一八六六)軍制改革により陸軍所と改称された。
※禁令考‐前集・第三・巻二五・安政三年(1856)三月二四日「剣術槍術砲術水泳等演習のため、講武所御創建被二仰出一」
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講武所
こうぶしょ
江戸時代末期に設けられた幕府の軍事修練所。安政1 (1854) 年,江戸築地に設けられた講武場が同3年講武所と改称され,旗本,御家人の子弟に剣術,砲術などを教授した。慶応2 (66) 年,陸軍所の設置に伴って廃止された。勝海舟,男谷精一郎,高島秋帆らが著名な教授であった。
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講武所
こうぶしょ
幕末,幕府の武芸練習所
1854年,老中阿部正弘が対外危機に備えて講武場('56年講武所と改称)を開設。旗本の子弟に剣・槍などを教授,のち洋式訓練も実施した。'57年軍艦操練所を加えたが,'66年陸軍所開設に伴い廃止。教授陣に高島秋帆・勝海舟らがいた。
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デジタル大辞泉
「講武所」の意味・読み・例文・類語
こうぶ‐しょ〔カウブ‐〕【講武所】
安政元年(1854)江戸幕府が旗本や御家人に、剣術・槍術・砲術などを講習させるために設けた武道場。初め築地鉄砲洲に設けられ、のちに神田小川町に移る。慶応2年(1866)陸軍所の設置に伴って廃止。
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こうぶしょ【講武所】
江戸末期に幕府が設けた武術修練所。1854年(安政1)開国前後の情勢緊迫化を背景に,老中阿部正弘のもとで設立準備が開始され,まず講武場を設置,翌年2月総裁,頭取などの役員の任命,56年3月築地鉄砲洲の施設完成の後,同年4月講武所として正式に開所された。剣・槍・砲術の各術科の師範役と教授方が置かれ,主として旗本御家人やその子弟の中の有志者に修練を施し,弓術・柔術・水練の教習も併せて行われた。1858年1月深川越中島に講武所付属の銃隊調練場が開設され,60年(万延1)2月講武所は神田小川町の新施設へ移転した。
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