日本大百科全書(ニッポニカ) 「諺」の意味・わかりやすい解説
諺
ことわざ
俚諺(りげん)、俗諺(ぞくげん)ともいい、古くから言い慣らわされ、日常生活の真理をうがった簡潔な表現。本来は「言(こと)の業(わざ)」で、ことばによる表現のすべてを意味したが、やがて「いろはかるた」にみられるような巧みなたとえに限定された。主として庶民生活の体験的な知恵から生み出されたものが多いが、古典に含まれた格言や故事などから出て、いつのまにか俗間に流布したものも含まれる。したがって格言との違いはさだかではない。諺の諺たるゆえんは、簡潔で語呂(ごろ)がよく、的確に人生のある一面を浮き彫りにしていることで、上手に使用すれば多大の効果をあげ、聞く人を感心させる反面、乱用すると嫌みになり、常套(じょうとう)語に堕する危険がある。
諺はその機能に応じて、批判的諺、教訓的諺、経験的諺、遊戯的諺に分けられる。批判的諺は、「馬鹿(ばか)の一つ覚え」「怠け者の節句働き」「井の中の蛙(かわず)」というように、話し相手の弱点をついて機先を制し、自分を有利に導くために用いられる。教訓的諺は、格言、箴言(しんげん)、金言とよばれるものに近い。
[船戸英夫]
日本
日本の諺の多くは中国の古典や仏教の経典に由来し、「衣食足りて礼節を知る」「三界に家なし」のようなたぐいのものと、体験的な生活の知恵である「出る釘(くぎ)は打たれる」「早起きは三文の得」のような表現がある。しかし日本的な諺はどうしても保守的になり、危険を避けマイホーム主義的になるものが多く、「長いものには巻かれろ」とか、世知にたけて「地獄の沙汰(さた)も金次第」というようになる。経験的諺は前者にほぼ似るが、もっと農業や漁業に密接に関連したものが多く、四季や天候に関連して、「陽(ひなた)ごぼうに陰(かげ)なすび」と雨の多寡によってできる作物の違いをついたり、「貧乏秋刀魚(さんま)に福鰯(いわし)」とサンマが豊漁のときは農作は不作、イワシが豊漁のときは農作も豊年ということを表したりする。「朝富士に夕筑波(つくば)」という諺は、江戸での天気を的確に表現したものだが、この種の諺には迷信が入り込むことが多く、「戌(いぬ)の日に岩田帯」は、犬に安産が多いことにちなむ風習を表すが、「丙午(ひのえうま)の女は夫を食い殺す」となると弊害のほうが多くなる。
形式的には語呂のよさが第一であって、二息でいえる長さのものが多く、「雨降って地固まる」と五五調、「話上手(じょうず)の仕事下手(べた)」と七五調を用いたり、「地獄に仏」と極端な対比をしたり、「急がば回れ」と逆説的な表現を用いたりして強烈な印象を与えるものが多い。このような効果をねらうには、数字を用いて「一寸の虫にも五分の魂」というような表現をとったり、「地震、雷、火事、親父(おやじ)」のように語の並列によって印象を強めることが多い。
内容的には、一面の真理のみを伝えることが多く、そのため逆の真理を伝える諺が対(つい)をなす。たとえば、「好きこそものの上手なれ」に対しては「下手の横好き」「器用貧乏」などがあり、「渡る世間に鬼はない」に対しては「人を見たら泥棒と思え」がある。
格言となると襟を正して聞かなければならないような倫理的、道徳的なものが多いのに、諺となると日常生活のややもすればどろどろとしたものが含まれ、その点に強く興味をもつ人が多い。「隣の花は赤い」とか「隣に倉建つと腹たつ」「隣の宝を数える」などは西欧の諺「隣の芝生は青い」に等しく、「隣千金に替えん」とか「遠い親戚(しんせき)よりも近くの他人」というように、「向こう三軒両隣」をたいせつにしなければならない諺と裏腹になっている。この正反対の考え方が一つの緊張関係を生み、人間関係の複雑さを的確に表現している。よしんば諺には格言にみられるような格調の高さはないにせよ、下世話の知恵を軽やかに表現することによって、ともすればぎすぎすしがちな庶民の人間関係の、また日々の生活の潤滑油的な役割を果しているといえよう。
[船戸英夫]
西洋
西洋においては、聖書の「箴言(しんげん)」や「福音(ふくいん)書」に基づくもの、ギリシア・ローマの古典に由来するものが、ちょうどわが国において中国の古典からの格言が多いように、人口に膾炙(かいしゃ)しているが、同時に民衆の体験的な知恵や賢者のことばが言い伝えられている。16世紀のオランダの哲学者エラスムスが、『金言集』Adagiaを書き、イギリスではジョン・ヘイウッドが1546年に英語の諺集を編纂(へんさん)したこともあって、16、17世紀にとみに諺が日常生活において好まれるようになった。また同時代の劇作家シェークスピアの作品にも諺となる表現が多くみられ、それが民衆に喜ばれた。まさにProverbs are the wisdom of the streets.(諺は巷(ちまた)の知恵)にほかならない。
形式的にはやはり語呂のよさが珍重され、Never shoot, never hit.(撃たなければ当たらぬ――まかぬ種は生えぬ)というように対句を用いたり、As poor as a church mouse.(教会のネズミのように貧しい)というように比喩(ひゆ)を用いたり、Death defies the doctor.(死は医師を無視する)というように頭韻を用いたり、What soberness conceals, drunkenness reveals.(しらふでは隠せても、酔えば現れる)というように脚韻を踏んだりしている。
国や民族の違いによって、また文化や慣習の違いに応じて、表現は千差万別であるが、内容は同じようなことが少なくない。「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」は、フランスでは「熱湯で火傷(やけど)した猫は冷水を恐れる」、イギリスでは「火傷した子は火を恐れる」となるし、「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」は、ラテン語や英語の「私を愛する人は私の犬をも愛する」と同工異曲であろう。「時は金(かね)なり」「沈黙は金(きん)」のような諺は万国共通である。イギリスの諺にはその国民性を反映して、いかに生きるべきかという処世術を扱ったものによいのが多く、ラテン系諸国の諺には軽妙で諧謔(かいぎゃく)に富んだものが目だち、ロシアの諺では寓話(ぐうわ)的なものがとりわけ愛好されている。
諺も時代や国によって意味が変化することがある。「転がり動く石には苔(こけ)がつかない」とは、ギリシア・ローマの時代からある古い諺で、たびたび居を移したり商売を変えたりする人は金持ちになれない、という意味に用いられてきたが、最近アメリカなどでは、「苔がつかない」ということをよい意味にとり、職を変えたり、積極的に動き回ることによって、金持ちになったりよい地位を得ることができる、と解釈する向きが強いようである。
また表現のうえでも、かつてはCare killed the cat.(心配は身の毒)という形で表現され、九つの命をもつという生命力に富んだ猫でさえ、心配ごとがあると死んでしまう、という意味を伝えていたが、現在ではCuriosity killed the cat.と、心配が好奇心に変えられて使われている。好奇心の旺盛(おうせい)な時代にふさわしい変化である。
[船戸英夫]
中国
中国では、諺のことを普通、常語(じょうご)、俗語(ぞくご)といい、長い間人々の間で言い習わされてきた語句を意味する。常語というのは日常生活の至言のことで、俗語というのは民俗の語録のことであるが、このほかにも、教訓的な意味をもつ格言、箴言、名言や、慣用句の成言(せいげん)なども諺と共通している。中国の諺の内容の一つの特徴は、役人の横暴を批判したものが多いことである。「役人は贈り物をする者にはつらく当たらない」「官位が高くなると鼻息が荒くなる」「長く役人を勤めると自然に財産ができる」「役人の情けは紙より薄い」や、また、数字を織り込んだ諺も多く、「百里風俗を同じくせず」「万丈の高楼も地から始まる」などがある。
諺の字句の構成には一定の形式があり、4字、5字、6字、7字、8字、10字、14字がある。成語として用いられることが多いのは4字のもので「夫唱婦随(ふしょうふずい)」のように日本語に取り入れられているものもある。5字の諺、6字の諺は文語的な感じはしないが、7字の場合、漢詩の一句の調子と同じになるので、内容は口語でも語り口は文語調のはずみをもつ。「人怕出名 猪怕壮」(人は、ねたまれるから名声の高まるのを恐れ、豚はと畜されるから太るのを恐れる)。8字の諺は「眼見是実、耳聞是虚」(目で見たものは確かであるが、噂(うわさ)に聞いたことはあてにならない)というように、4字の語句が対句(ついく)になっている。同様に、10字の諺は5字の対句、14字の諺は7字の対句になっているのである。
[清水 純]
『『故事名言・由来・ことわざ総解説』(1993・自由国民社)』▽『大塚高信・高瀬省三編『英語ことわざ辞典』(1995・三省堂)』▽『『ことわざ大辞典 故事・俗信』(1982・小学館)』▽『『日英故事ことわざ辞典』(1994・北星堂書店)』