論語/名言集(読み)ろんごめいげんしゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「論語/名言集」の意味・わかりやすい解説

論語/名言集
ろんごめいげんしゅう

子(し)曰(いわ)く、「学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方より来(きた)る、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)まず、亦た君子(くんし)ならずや」(学而篇(がくじへん))。

  『論語』全編の冒頭の章。これは孔子の全体像をよく写し出している。これを冒頭に置いたのは、『論語』編纂(へんさん)者の深い知慧(ちえ)である(平岡武夫著『論語』序説・集英社)。

子曰く、「吾(われ)十有五にして学に志(こころざ)す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲(ほっ)する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず」(為政篇)。

  晩年の孔子が自分の体験を物語ったことばであろう。古来、この境地聖人でなければ不可能だというふうに解されるが、素直(すなお)に読めば万人の年齢に応じた心身の変化を物語るものでもあろう。天命を知るは、天からの使命を自覚すると解するむきもあるが、古注のように、運命の如何(いかん)ともする能(あた)わざるを悟ったと解するほうが、50の年にふさわしい。「六十、耳順う」、何をいわれても気にならぬことであろう。確かによくできた人ではある。しかし同時に耳が遠くなったためかもしれぬ。「七十、心の欲する所に従って矩を踰えず」は、肉体的な衰えが踰えさせないことでもある。こういったとて、孔子をおとしめることにはなるまい。むしろ孔子が本当に正直な、飾らずに物をいう人だったと感嘆させられるのである。

子曰く、「学びて思わざれば罔(くら)し。思うて学ばざれば殆(あやう)し」(為政篇)。

  戦前、旧制高校で次のような解釈の仕方もあると教えられた。「学びて思わざれば左傾す。思うて学ばざれば右傾す」と。

子曰く、「孰(たれ)か微生高(びせいこう)を直(ちょく)なりと謂(い)う。或(ある)ひと醯(す)を乞(こ)う。諸(これ)を其(そ)の鄰(となり)に乞いてこれを与う」公冶長(こうやちょう)編)。

  微生高は正直者の評判が高かった。人が酢をくれといったとき、自分の家になかった。ないからやれない、といえばよいのに、そうはいわず、隣家からもらってきてその人にやった。孔子はこれを不正直という。今日、ある種の政治家や慈善家にもこのたぐいの行為がみられはすまいか。

子曰く、「巧言、令色、足恭(すうきょう)、左丘明(さきゅうめい)これを恥(は)ず。丘(きゅう)も亦(ま)たこれを恥ず。怨(うら)みを匿(かく)して其(そ)の人を友とす、左丘明これを恥ず。丘も亦たこれを恥ず」(公冶長編)。

  巧言はおせじ。令色は作り笑い。足恭は度を過ぎたていねいさ。丘は孔子の名、一人称。怨みを匿してその人を友とすること、現実の社会生活でとかく免れがたい。逆にそれを心の広い証拠とするむきもあろう。しかし孔子はそれを恥じた。このことは憲問篇にみえる次の問答とも通ずる。

或(ある)ひと曰く、「徳を以て怨(うら)みに報(むく)いば如何(いかん)」。子曰く、「何を以てか徳に報いん。直(なお)きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」(憲問篇)。

  老子は「怨みに報ゆるに徳を以てす」といった。これは宗教的な赦(ゆる)しの思想である(福永光司著『老子』朝日新聞社)。孔子はそういわない。儒教は宗教ではない(平岡武夫著『論語』)。

子華(しか)、斉(せい)に使いす。冉子(ぜんし)其(そ)の母の為(た)めに粟(ぞく)を請う。子曰く、「これに釜(ふ)を与えよ」。益(ま)さんことを請う。曰く、「これに庾(ゆ)を与えよ」。冉子これに粟五秉(へい)を与う。子曰く、「赤(せき)の斉に適(ゆ)くや、肥馬(ひば)に乗り、軽裘(けいきゅう)を衣(き)る。吾(われ)これを聞く、君子は急を周(すく)うて富めるに継(つ)がず、と」(雍也(ようや)篇)。

  赤は子華の本名。釜は日本の1斗(約18リットル)。庾は2斗8升。秉は2石8斗。清(しん)の袁枚(えんばい)はこの章について次のようにいう。孔子が人に金品を与える場合、けっして放漫な慈善家ぶりはしなかった。この場合、他人がみたら、孔子はひどく吝嗇(りんしょく)なようにみえたであろうが、最後の一句が示すように、孔子には定見があった。ただし、この章だけでは孔子が吝嗇だという印象をぬぐい去ることができないかもしれぬ。『論語』の編纂(へんさん)者はそのことを恐れて、この1章に続けて次の挿話を載せたのだ、と(『随園尺牘(ずいえんせきとく)』巻8、林遠峯)。

原思(げんし)これが宰(さい)たり。これに粟(ぞく)九百を与う。辞す。子曰く、「毋(な)かれ。以て爾(なんじ)の隣里郷党(りんりきょうとう)に与えんか」(雍也篇)。

  900の単位を記さぬが、古注では900斗。「これが宰」、孔子の領地の代官。原思に対して気前よく与えたのは、彼が孔子の門人中でも有名な貧乏だったからである。

「食(いい)は精(しら)げを厭(いと)わず。膾(なます)は細きを厭わず。食の饐(す)えて餲(あい)せる、魚の餒(あざ)れて肉の敗(やぶ)れたるは食(くら)わず。色悪(あ)しきは食わず。臭(にお)い悪(あ)しきは食わず。飪(じん)を失いたるは食わず。時ならざるは食わず。割(きりめ)正しからざれば食わず。其(そ)の醤(しょう)を得ざれば食わず。肉は多しと雖(いえど)も、食気(しき)に勝(か)たしめず。唯(ただ)酒は量無し。乱に及ばず」(郷党篇)。

  餲、味が変わる。飪、煮加減(にかげん)。食気、飯の分量。量無しは無制限の意。食通で有名な清(しん)の袁枚(えんばい)は、この叙述をもって孔子が食い道楽であったことの証左であるという(『小倉(しょうそう)山房文集』巻19、再答彭尺木(ほうせきぼく))。また民国の林語堂は、かように料理にうるさい亭主をもった孔子の細君はさぞたいへんだったろう、と同情している(『支那(しな)のユーモア岩波書店)。なお、亡父本田成之によれば、戦前、ある学会で、ある人が「孔子と酒」という題で講演したが、「唯酒は量無し。乱に及ばず」一句の講釈に終始した、という。

子張(しちょう)、禄(ろく)を干(もと)むるを学ぶ。子曰く、「多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎(つつし)んで其(そ)の餘(よ)を言えば、則(すなわ)ち尤(とがめ)寡(すく)なし。多く見て殆(あやう)きを闕き、慎んで其の餘を行えば、則ち悔(くい)寡なし。言(げん)に尤寡なく、行いに悔寡なければ、禄其の中(うち)に在(あ)り」(為政篇)。

  孔子は己のためにする学問、すなわち没利害的な自身の修養のための学問を弟子に授けようとしたはずである。しかし弟子たちはいつも就職の手段としての学問を習いたがった。そのような場合、先生の答えはいつも的はずれである。わざと外しているのかもしれない。この答えにしても、実際の就職の手段とは逆ではないのか。たいてい、世に出る人は、少なく聞いて、疑わしいことでも真っ先に口走るような人である場合が多い。

樊遲(はんち)、稼(か)を学ばんと請う。子曰く、「吾(われ)老農に如(し)かず」。圃(ほ)を為(な)すを学ばんと請う。曰く、「吾老圃に如かず」。樊遲出(い)ず。子曰く、「小人(しょうじん)なるかな樊須(はんしゅ)や。上(かみ)礼を好めば、民敢(あえ)て敬せざる莫(な)し。上義を好めば、民敢て服せざる莫し。上信を好めば、民敢て情(じょう)を用いざる莫し。夫(そ)れ是(かく)の如(ごと)くならば、四方の民、其(そ)の子(こ)を褓負(きょうふ)して至らん。焉(いずく)んぞ稼を用いん」(子路篇)。

  遲は樊須の字(あざな)。稼は穀物の栽培。圃は野菜畑。情は真情。褓負、負ぶい紐(ひも)でおんぶすること。弟子たちは孔子に実用的な知識ばかりを求めようとする。ときには農業の仕方まで。孔子もさすがにうんざりしているようだ。ただし、清(しん)の毛奇齢(もうきれい)は別の解釈をしている。樊遲は一種の労農思想、すなわち君主も臣民も自分の食べる分だけは自分で耕作すべきだ、というような説にかぶれていたもので、さればこそ、肉体労働もせず、おそらく五穀(ごこく)の見分けもつかぬ知識人の代表たる孔子に、わざと農耕の仕方を尋ねたのである。そうでなければ、孔子の答えに「上礼を好まば云々」ということばが出てくるはずはない、と(『四書賸言(ようげん)』巻4)。ちなみに、孔子のこの答えをもって、脱農民宣言であるとする意見もある(加地伸行著『論語』角川書店)。

子路(しろ)・曽晢(そうせき)・冉有(ぜんゆう)・公西華(こうせいか)侍坐(じざ)す。子曰く、「吾(われ)一日爾(なんじ)より長(ちょう)ぜるを以て、吾を以てする毋(な)きなり。居(お)れば則(すなわ)ち曰く、吾を知らざるなりと。如(も)し或(ある)いは爾を知らば、則ち何を以てせんや」。子路卒爾(そつじ)として対(こた)えて曰く、「千乗の国、大国の間に摂(せま)られ、これに加うるに師旅(しりょ)を以てし、これに因(よ)るに飢饉(ききん)を以てす。由(ゆう)やこれを為(おさ)むるに、三年に及ぶ比(ころ)おいには、勇有り且(か)つ方(ほう)を知らしむべきなり」。夫子(ふうし)これを哂(わら)う。「求(きゅう)、爾は如何(いかん)」。対えて曰く「方(ほう)六七十、如(も)しくは五六十、求やこれを為(おさ)むるに、三年に及ぶ比おいには、民を足(た)らしむべし。其(そ)の礼楽(れいがく)の如きは、以て君子を俟(ま)たん」。「赤(せき)、爾は如何」。対えて曰く、「これを能(よ)くすと曰(い)うには非(あら)ず。願わくば学ばん。宗廟(そうびょう)の事、如(も)しくは会同に、端(たん)章甫(しょうほ)して、願わくば小相(しょうそう)と為らん」。「点(てん)、爾は何如」。瑟(しつ)を鼓(ひ)くこと希(まれ)なり。鏗爾(こうじ)と瑟を舎(お)きて作(た)ち、対えて曰く、「三子者(さんししゃ)の撰(せん)に異なり」。子曰く、「何ぞ傷(いた)まんや。亦(ま)た各(おのおの)其の志を言うなり」。曰く、「莫春(ぼしゅん)には春服既(すで)に成(な)り、冠者(かんじゃ)五六人、童子(どうじ)六七人、沂(き)に浴(よく)し、舞雩(ぶう)に風(ふう)し、詠(えい)じて帰らん」。夫子(ふうし)喟然(きぜん)として歎(たん)じて曰く、「吾は点に与(くみ)せん」(先進篇)。

  もっともドラマチックで美しい場面。曽晢、本名は点(てん)。冉有(ぜんゆう)、本名求(きゅう)。公西華、本名赤(せき)。孔子が「私が年長だからといって遠慮するな。お前たちはいつも世に知られぬことを嘆いているが、もし世に出られたら何をするか」と問うたのに対し、3人の弟子はそれぞれ政治・経済・外交の場で活躍したいと答える。曽晢だけが隅で琴(こと)をポツンポツン弾いていた。孔子に「お前は」と問われ、カラリと琴を置いて立ち、「お三方と考え方が違いますので」「構わないからいえ」「春の暮れ、新しい着物を着て、若者を連れ、沂水で水浴びし、雨乞(あまご)いの台で風に吹かれ、歌を歌いながら帰る。そのような生活がしとうございます」。孔子はホッとため息をついていった。「わしもお前と同意見だ」。

[本田 濟]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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