角田二口村(読み)すまたふたくちむら

日本歴史地名大系 「角田二口村」の解説

角田二口村
すまたふたくちむら

[現在地名]三川町角田二口かくたふたくち

大山おおやま川の両岸に位置する。本村は右岸善阿弥ぜんなみ村の南にあり、左岸には二口新田(通称門前)集落がある。近世前期には角田(須磨田・須麻田・隅田)と二口(二ッ口)の二集落からなっていた。元和九年(一六二三)検地帳(二口文書)では両集落とも五人の百姓の名前がみられる。青竜寺しようりゆうじ川の開削に伴い開発されたと考えられる。二口は奥羽国境の二口峠から移住した佐藤氏一族により元亀年間(一五七〇―七三)に開かれたと伝えられる。また庄内藩士角田儀右衛門が開発にかかわったともいう(三川町史)。元村とみられる角田集落は二口集落の南、播磨京田はりまきようでん(現鶴岡市)新興屋あらこうや(現同上)の間にあったが、やがて戸数が減じ残った二戸も元禄九年(一六九六)、同一一年に新興屋村に移転したので田畑のみが飛地として残された。すでに寛文三年(一六六三)より二口新田が開発されたこともあり、この頃には二口集落が事実上元村とみなされ、村名も角田二口村に定着した。領主の変遷は東沼ひがしぬま村と同じ。

元和八年の酒井氏知行目録には須麻田村とみえ、高一〇〇石余。翌九年の角田村検地帳によれば反別五反四畝余。寛永元年庄内高辻帳では須麻田村の高六三石余、二ッ口村の高八五石余。寛永二年(一六二五)の年貢定免状(二口文書)には角田村とあり、高一四九石余・取米六九石余(概免四ツ六分余)正保郷帳には角田二口村とみえ、田一五二石余・畑七石余。慶安二年(一六四九)の成箇納方目録(羽根田文書)にも角田二口村とあり、高一六〇石余、免四ツ七分五厘で、付荒高二七石余があり実際取米六三石余、このうち七石余が「未進御かし次」で、ほかに谷地年貢八石余、種夫食米一二俵があった。元禄二年の村明細帳(二口文書)庄内地方で最も古いもので、高三〇〇石余、本百姓一四・水呑二、男四九・女三九、馬七、当村よりの出作高一〇九石余、他村よりの入作高七〇石余。明和二年(一七六五)頃の玉塵集(八幡文書)では、田二四町二反余・畑五町二反余、取米一二〇石余、毛付免四ツ余、家数一八、男五三・女四〇、馬六、酒屋一。文政(一八一八―三〇)頃の村絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)では本村一〇戸で、新田に三戸と六戸の二集落がみえる。大山村(現鶴岡市)の助郷を勤めた。年貢米は当村の船着場より川下げされた。

酒屋を佐藤東蔵家が営み、屋号を大坂屋といい元禄初年の創業とみられる(三川町史)。同家は代々肝煎・名主を勤め、二口新田の開発の際も開発者武山勘左衛門より従来どおりその地を支配するよう命じられた(二口文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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