観世元章(読み)かんぜもとあきら

精選版 日本国語大辞典 「観世元章」の意味・読み・例文・類語

かんぜ‐もとあきら【観世元章】

江戸中期の能役者観世流一五世家元。国学を好み、当時の国学者の応援を得て、謡曲文の大改訂をこころみた。享保七~安永三年(一七二二‐七四

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デジタル大辞泉 「観世元章」の意味・読み・例文・類語

かんぜ‐もとあきら〔クワンゼ‐〕【観世元章】

[1722~1774]江戸中期の能役者。シテ方観世流15世宗家。左近と称す。田安宗武賀茂真淵らの協力を得て、謡曲の詞章を大改訂した「明和改正謡本」を刊行

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改訂新版 世界大百科事典 「観世元章」の意味・わかりやすい解説

観世元章 (かんぜもとあきら)
生没年:1722-74(享保7-安永3)

第15代観世大夫。14代清親の嫡男。三十郎,左近と称す。1732年(享保17)江戸城で初舞台,47年(延享4)家督相続。父祖の代より着々と力を蓄積してきた観世座は,元章の代に父の後をうけて将軍家重・家治二代の能指南役となり,一方,前代以来の京都への進出をほぼ完了するに及んで,流勢が頂点に達した。50年(寛延3)江戸筋違橋における晴天15日間の大勧進能の興行,52年(宝暦2)弟の織部清尚の別家観世銕之丞(てつのじよう)家樹立なども,そうした流勢の反映であった。一方で元章は篤学な考証家であり,父清親にならい家伝の世阿弥伝書を数多く書写し,さらに考証・注釈を加え,その一部を版行するほどであった。このような元章の識見と将軍の後援とによって行われたのが,いわゆる〈明和改正謡本〉の刊行である。田安宗武,賀茂真淵らの協力の下,65年(明和2)6月に幕府御用書肆出雲寺和泉掾より出版されたこの謡本は,古曲の復曲や新作を含む210曲のほか,《二百拾番謡目録》1冊,《九祝舞》1冊,《独吟》9冊から成る。これとは別にこの謡本に対応するアイ(間狂言)の台本《副言巻》も刊行された。国学色濃厚で極端な改訂文句は当初より悪評を呼び,元章没後ただちに廃止されたが,以後の観世流謡本に与えた影響は少なくなかった。また絶大な権威を背景に演出の体系化と習道階梯の確立とをはかり,家元制度の充実につとめた。その改訂謡本は廃止されたものの,元章の制定した演出や秘伝は後代にも基本的に継承された。観世座が四座一流の筆頭としてその地位を不動のものにしたのも元章によるところが大きい。功罪相なかばするが,観世座中興の祖といってよかろう。
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朝日日本歴史人物事典 「観世元章」の解説

観世元章

没年:安永3.1.18(1774.2.28)
生年:享保7(1722)
江戸前・中期の能役者。15代観世大夫。14代清親の嫡男。延享4(1747)年に家督を継ぎ,父同様将軍家の能指南役を勤める。寛延3(1750)年に江戸で15日間にわたる未曾有の大勧進能を興行し,自ら43番を舞う。宝暦2(1752)年には弟織部清尚の分家(観世銕之丞家)樹立も認められ,流勢は頂点に達する。その一方で元章はいわゆる『明和改正謡本』の刊行に力を注ぎ,賀茂真淵,田安宗武らの協力の下で,復曲,新作を含めた210番の曲目選定ならびに詞章の大幅な改定を行ったが,国学の影響を受けた復古的色彩の強い詞章はすこぶる不評で,彼の没後直ちに廃止される。また新演出の採用にも意欲的で,「小書」と呼ばれる特殊演出を数多く編み出した。これらの小書の多くは現在も踏襲されており,演出面での改革は大きな成果を上げた。行き過ぎた点はあったにせよ,観世座中興の祖として傑出した大夫であった。<参考文献>表章「観世“左近”大夫考」(『観世』1990年9月号)

(石井倫子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「観世元章」の意味・わかりやすい解説

観世元章
かんぜもとあきら
(1722―1774)

江戸後期の能役者。シテ方。観世流15世宗家。幼名三十郎。1747年(延享4)宗家を継ぎ左近(さこん)と改名。謡曲詞章の改訂から演出の細部に及ぶ能楽合理化を断行した。田安宗武(たやすむねたけ)が後援し、賀茂真淵(かもまぶち)ら国学者の助力もあって、『明和(めいわ)改正謡本』を刊行した。従来のテキストの無効を宣したほどの大改革も急激にすぎたため、没後は将軍の命令により旧に復した。『阿古屋松(あこやのまつ)』『松浦鏡(まつらかがみ)』などの復曲や『梅』など新作にも意欲をみせた。また、50年(寛延3)江戸筋違(すじかい)橋で前例のない晴天15日間の勧進能をも演じている。

[増田正造]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「観世元章」の意味・わかりやすい解説

観世元章
かんぜもとあきら

[生]享保7(1722)
[没]安永3(1774).1.18.
能楽師。観世流 14世宗家清親の長男。延享4 (1747) 年 15世宗家となる。国学と故実考証に熱心で,合理的な演出を行うために詞章,所作,作り物,扮装などの大改革を行い,明和2 (65) 年『明和改正謡本』を刊行。しかし極端で急激な改革が悪評を呼び,没後,改革は旧に復したが,演出面で今に継承されているものもある。弟の織部清尚 (享保 12〈1727〉~天明2〈82〉) は分家観世銕之丞家を樹立した。

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百科事典マイペディア 「観世元章」の意味・わかりやすい解説

観世元章【かんぜもとあきら】

江戸中期の能役者。観世流15世宗家。謡曲の詞章と演出を改革し,能楽合理化を断行して〈明和の改正〉といわれたが,急激に過ぎたため一代で終わった。田安宗武賀茂真淵らがこれに協力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「観世元章」の解説

観世元章 かんぜ-もとあきら

1722-1774 江戸時代中期の能役者シテ方。
享保(きょうほう)7年生まれ。観世清親(きよちか)の長男。延享4年宗家15代をつぎ,左近を襲名。田安宗武(むねたけ)や賀茂真淵(かもの-まぶち)らの助力をえて謡本を改訂し「明和改正謡本」を刊行。この改訂は不評で元章没後に廃されたが,創始した演出や秘伝は基本的に継承されている。安永3年1月18日死去。53歳。江戸出身。通称は三十郎。

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