西海道(読み)サイカイドウ

デジタル大辞泉 「西海道」の意味・読み・例文・類語

さいかい‐どう〔‐ダウ〕【西海道】

五畿七道の一。今の九州地方全域。大宰府だざいふが統轄。初め筑前筑後豊前ぶぜん豊後ぶんご肥前肥後日向ひゅうがの7国と壱岐いき対馬つしまの2島。天長元年(824)以後、薩摩さつま大隅おおすみを加えた9国2島となる。慶長14年(1609)に琉球も含む。また、これらの国々を結ぶ街道のことをもいう。西の海の道。西海。鎮西ちんぜい

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精選版 日本国語大辞典 「西海道」の意味・読み・例文・類語

さいかい‐どう ‥ダウ【西海道】

[1] 五畿七道の一つ。現在の九州地方。「続日本紀」では筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向の七国および壱岐、対馬の二島となり、さらに薩摩、大隅を加えて天長元年(八二四)以後は九国二島となる。また慶長一四年(一六〇九)には琉球も含められた。大宰府が統轄。鎮西。西道。西州。西海。西国筋(さいこくすじ)
[2] 〘名〙 「さいこく(西国)(一)②」への道。〔日葡辞書(1603‐04)〕

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日本歴史地名大系 「西海道」の解説

西海道
さいかいどう

古代律令制下の官道。地方行政区画としては五畿七道の一つで、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の九ヵ国と壱岐・対馬の二島からなる(「延喜式」民部上)。古代の律令政府は、地方支配のため諸国に設置された国府とを結ぶために東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七つの官道を設定し、三〇里(約一六キロ)ごとに駅を設けた。各道は重要度に従って山陽道を大路、東海道・東山道を中路、他を小路として、駅ごとに大路は二〇疋、中路は一〇疋、小路は五疋の駅馬が配備された(「令義解」厩牧令・置駅馬条)。西海道は他の六道が京を中心にして地方に向かって放射状に延びていたのに対し、「遠の朝廷」と称された大宰府を中心として、山陽道と連絡する大宰府路、こめやま(現筑紫野市と筑穂町の境)越えで豊前国府へ向かう豊前路、筑紫ちくし平野から現大分県日田市経由で豊後・日向・大隅の各国府へ向かう豊後路、筑後国経由で肥後・薩摩の両国府を結ぶ薩摩路、肥前国府に向かう肥前路、壱岐・対馬へ向かう対馬路など、各国府に向かって複数の駅路が放射状に延びていた。これは中央政府に直接統轄された他の六道に属する諸国と異なり、民生・財政面で西海道諸国に強い監督権限をもった大宰府に統轄されたためであろう。これらの官道のうち大宰府路が大路扱いであったが、他は小路として位置付けられた(前掲令義解など)

西海道
さいかいどう

古代の官道。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条には肥前国に駅馬を置く一五ヵ駅(別に伝馬一駅)が記される。うち大村おおむら逢鹿おうか登望とも賀周かす・磐氷の諸駅は現佐賀県域に比定する説が有力であるものの、磐氷駅を東彼杵ひがしそのぎ町彼杵とする説(大日本地名辞書)、大村駅を大村市大村に想定する見解(日本地理志料)などがあり、肯定するにも否定するにも確かな根拠がない。現段階では新分にいきた駅・船越ふなこし駅・山田やまだ駅・野鳥のとり駅の四ヵ所が県域に所在したと考えられる。また壱岐にも二駅が置かれているが、対馬には設置されていない。

新分駅を彼杵そのき郡内とする説によれば、「肥前国風土記」当時に二駅あったものを一駅にまとめ、新たに分け置いたものという。そしてこのもとの二駅が彼杵郡内の彼杵と大村とすれば、その中間辺りのこおり川河口部が有力となる。新分駅から大村を経て、風観ふうかん岳の南西の火の見ひのみ峠を南に下ると高来たかく郡域で、現諫早いさはや破籠井わりごい永昌えいしようを経て船越地区に至るが、これが船越駅の比定地とされ、駅間は約二〇キロとなる。

西海道
さいかいどう

律令制下における官道。山陽道臨門りんもん(現山口県下関市)から関門海峡を渡ると当海道に入る。駅路については議論はあるが、一般的に山陽道を引継いで大宰府に至り、同所から筑後・肥後・薩摩・大隅を通る道を西路、この路程の豊前到津いたむつ(現福岡県北九州市小倉区)で分れて、豊前・豊後・日向を通る道を東路として、本道と考えられている。このほかに支路として豊前・豊後・肥前・壱岐などの各国府と大宰府とを結ぶ道や豊後と肥後を結ぶ道、日向と肥後とを結ぶ道もあった。なお大宰府と各国府とを結ぶ道(およびその延長路)については、東路・西路と同様に本道であったととらえる見解もある。大路と規定された社埼もにさい(現同市門司区)―大宰府間を除いては小路である。

西海道
さいかいどう

律令政府はその中央集権体制を維持するために、都と各国府との間で緊密な命令伝達と情報収集を行っていた。そのため数多くの役人が命令書や報告書を携えて都と各地方出先機関の間を往来した。政府はこうした役人や政府への貢納物を運搬する人々に便宜を供するため官道や駅伝制度を整備し、都と各国府を結ぶ六本の幹線道路が都から放射状に設定された。これらの官道が東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道で、九州には西海道という官道が設定された。こうした官道に沿った地域は広域ブロックとして官道と同じ名前でよばれた。律令制度のもとの畿内七道制がそれである。こうした広域ブロックにはまれに節度使観察使などが設置・派遣され、行政の単位として扱われることもあったが、西海道を除いて一般に恒常的な行政単位として機能することはなかった。畿内七道のなかでは西海道のみが恒常的に行政単位として機能していた。

西海道
さいかいどう

律令制下、九州に設定された官道。古代における幹線道路で、駅路ともよばれて三〇里(約一六キロ)ごとに駅家が設置された。また西海道をはじめとする七道は広域ブロックの名称でもあったが、七道のなかでは西海道のみが恒常的に行政単位として機能し、大宰府が統括していた。駅路には大路・中路・小路があった。西海道は小路に分類され、駅ごとに五疋ずつの馬が置かれ(「延喜式」兵部省)、駅には駅起田などの独自財源が設定されて駅戸も置かれていた。駅馬を利用する場合は駅鈴が必要とされ、大宰府には二〇口、大上国には三口、中下国には二口が与えられていたが、薩摩国・大隅国は中国とされていたので駅鈴二口が支給されていたものと思われる。

西海道
さいかいどう

首里城から沖縄島西海岸沿いの浦添うらしー北谷ちやたん読谷山ゆんたんざ金武ちん名護なぐ今帰仁なちじん羽地はにじの各間切を通過して国頭くんじやん間切に至り、東海岸沿いを北上してきた東海道とつながる近世初期にみえる主要な街道。正保国絵図のうち悪鬼納島の絵図(縮尺は六寸一里、二万一千六〇〇分の一)に道筋が朱で記され、一里(三六町)ごとに一里山が描かれ、西海道では王城(首里城)から国頭間切辺戸ふいる(現国頭村)までに三四ヵ所を数える。

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百科事典マイペディア 「西海道」の意味・わかりやすい解説

西海道【さいかいどう】

五畿七道の一つ。今の九州地方。《古事記》では筑紫(つくし)・豊(とよ)・肥(ひ)・熊襲(くまそ)の4国。7世紀末に筑・豊・肥をそれぞれ前後に分け,熊襲は日向(ひゅうが)となり,壱岐(いき)・対馬(つしま)・多【ね】(たね)の3島を加え,8世紀初めに日向から分かれた薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)を加えて9国3島。824年に多【ね】を大隅に併合,《延喜式》では筑前・筑後・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬の9国2島。
→関連項目壱岐島駅・駅家大隅国薩摩国筑後国筑前国対馬島肥後国肥前国日向国豊前国豊後国

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改訂新版 世界大百科事典 「西海道」の意味・わかりやすい解説

西海道 (さいかいどう)

日本古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。現在の九州地方。西海道の名称は701年(大宝1)が初見であるが,それ以前この地域は筑紫(つくし),西道などと記された。《西宮記》では〈ニシノミチ〉〈ニシノウミノミチ〉と読んでいる。日本の西端にあり朝鮮半島や中国大陸への玄関口に当たるため,古くから文化流入の上ばかりでなく外交面でも重要な位置にあった。6世紀ころに筑紫大宰(つくしのおおみこともち)が置かれ,北九州を中心とする地域の支配管理に当たっていたことはそれを裏づける。この機関は後に大宰府(だざいふ)として引き継がれた。《延喜式》によると筑前,筑後,豊前,豊後,肥前,肥後,日向,大隅,薩摩の9国と壱岐,対馬の2島が所属するが,その所属には変遷があった。702年薩摩国と多褹(たね)島(現,種子島)が設置され,713年(和銅6)大隅が日向より分立した。また824年(天長1)多褹島を大隅に併合している。西海道は他の諸道と異なって,大宰府の統轄下にあった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「西海道」の解説

西海道
さいかいどう

(1)古代の七道の一つ。現在の九州地方にあたり,筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・大隅・薩摩・日向の各国と壱岐・対馬・多禰(たね)の各島(国に準ずる)が所属する行政区分。筑前国におかれた大宰府が,朝廷からの出先機関としてこれら9国3島を統轄した。(2)これらの諸国・諸島を結ぶ交通路も西海道と称し,大宰府を中心に陸路が官道として,また諸島との間の海路が整備された。駅路としては,畿内から大宰府に至る途上の区間が大路のほかは小路の扱いで,「延喜式」では総計97駅に605頭の駅馬をおく規定であった。732年(天平4)に西海道節度使,746年に山陽・西海両道鎮撫使(ちんぶし),761~764年(天平宝字5~8)に西海道節度使を設置した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西海道」の意味・わかりやすい解説

西海道
さいかいどう

現在の九州地方。古代,五畿七道の一つ。奈良時代には筑前,筑後,豊前,豊後,肥前,肥後,日向,大隅,薩摩の9国と壱岐,対馬,多ね (たね) の3島であったが,平安時代初期,多ね島が大隅に編入され9国2島となった。大宰府の統轄下にあった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「西海道」の解説

西海道
さいかいどう

律令制下の五畿七道の一つ
現在の九州地方。筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬の9国2島をいう。大宰府が西海道諸国を統轄した。

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世界大百科事典(旧版)内の西海道の言及

【駅伝制】より

…中央から辺境にのびる道路にそい,適当な間隔で人・馬・車などを常備した施設すなわち駅を置き,駅を伝わって往来する交通・通信の制度。世界史上,前近代に広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると,外敵の侵入や国内の反乱に直ちに対処するばあいを含め,支配維持のために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となり,さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般であった。このように駅伝制はもともと前近代における支配手段の一種であったから,国家の管理下に置かれて民間の自由な利用は許さないのが原則であり,また国家権力の解体とともに衰退していった。…

【五畿七道】より

…また日本全国を表す語としても用いられた。五畿は山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内の5ヵ国をさし,七道は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道(各項目参照)をさす。畿内は皇都周辺の特別行政地域として646年(大化2)に設置された。…

※「西海道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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