西教寺(読み)さいきょうじ

精選版 日本国語大辞典 「西教寺」の意味・読み・例文・類語

さいきょう‐じ サイケウ‥【西教寺】

滋賀県大津市坂本本町にある天台真盛宗の総本山。山号は戒光山。大窪山智善院ともいう。聖徳太子の創建と伝えられる。文明一八年(一四八六真盛派の開祖慈摂真盛の入山により中興し、不断念仏の道場として栄えた。境内に明智光秀の墓がある。

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デジタル大辞泉 「西教寺」の意味・読み・例文・類語

さいきょう‐じ〔サイケウ‐〕【西教寺】

滋賀県大津市坂本にある天台宗真盛しんぜいの総本山。山号は戒光山。聖徳太子の草創と伝える。文明18年(1486)真盛が中興、念仏の根本道場とした。客殿は伏見城の遺構という。境内に明智光秀の墓がある。大窪山智善院。

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日本歴史地名大系 「西教寺」の解説

西教寺
さいきようじ

[現在地名]大津市坂本五丁目

琵琶湖を眼下に眺望できる比叡山の東山麓に位置する。山号は戒光山、本尊は阿弥陀如来。全国に末寺四五〇余を有する天台真盛宗の総本山。参道には塔頭(宿坊)が六坊並んでいる。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔草創・法勝寺戒場〕

西教寺の草創は、西教寺中興の祖真盛の高弟真生によって著された明応四年(一四九五)の「真盛上人往生伝記」によれば、良源が延暦寺の横川飯室よかわいいむろ谷に近い当地に草庵を結び、のち源信が道場にしたことに始まるという。その後荒廃していたが、鎌倉時代に恵鎮(五代国師・慈威・円観)が復興した。恵鎮は正中二年(一三二五)その年没した後宇多天皇の追善法会を営むために後醍醐天皇に願出て勅許を得、西教寺を改築した(「閻浮受生大幸記」寺蔵)。嘉暦二年(一三二七)恵鎮は京都法勝ほつしよう寺に入るが、以来当寺は法勝寺末となり、また恵鎮が相承していた黒谷流円頓戒(のち法勝寺流と改める)の四箇戒場(ほかは法勝寺・帝釈寺・神蔵寺)の一つに数えられた。なお永和三年(一三七七)の法勝寺興行条々(寺蔵)によると、法勝寺堂塔の修復をするために全国五三末寺からの扶助金を定めているが、このとき西教寺は五〇〇文を上納していた。

しかし法勝寺はその後度重なる戦乱の兵火や火災によってしだいに衰微した。後陽成天皇は法勝寺の法脈の絶えるのを惜しみ、西教寺に法灯を相承すべく天正一八年(一五九〇)八月二二日に「既に退転に及ぶ由、歎き見し召さるる条、真智上人に預け置かれ候い訖んぬ。戒法を相続し執行の愍情を抽んせらるべきの旨者」という綸旨(寺蔵)を下した。これにより法勝寺流の戒場が当寺に移され、兼併することになった。同時に法勝寺の鎌倉時代の木造薬師如来坐像、同時代の華麗な法華経(色紙金銀箔散、いずれも国指定重要文化財)八帖をはじめとする数多くの聖教類・法具類が西教寺に伝来した。聖教類は編とよばれ、法勝寺流の戒灌の書で「師資伝授之宝器」(「法勝寺戒場記」寺蔵)であった。編には恵鎮、二世惟賢、一八世周嶺などの自筆書が含まれる。さらに文禄三年(一五九四)一一月には飯室谷の松禅しようぜん院・山本やまもと坊・長寿ちようじゆ院・円乗えんじよう院の各住持が法勝寺流の相続を願い、飯室谷帝釈たいしやく寺とその山林・坊地をすべて西教寺に喜捨しており(「帝釈寺山林坊地譲状」寺蔵)、名実ともに法勝寺流を受継いだことになった。

〔真盛の入寺〕

西教寺は、恵鎮以降真盛が入寺するまでの一六〇年間は史料のうえに現れない。

西教寺
さいきようじ

[現在地名]大川町富田東

山の南麓、字北地きたじにある。真言宗善通寺派。花生山蓮花院と号し、本尊阿弥陀如来。寺記では行基開創、空海建立。宝蔵院古暦記(松浦文書)によると天長六年(八二九)建立、元来宝蔵ほうぞう(現長尾町の極楽寺)末寺であったが、延喜一〇年(九一〇)に印清が富田院主を僭号して同院を離れ、翌一一年再び末寺に復したという。戦国期に安富氏によって強引に与田よだ(現大内町)の末寺にされたことがあった。天正四年(一五七六)増玉が正御影供を修し、安富筑後守は家臣六車宗湛をして銅鉢を寄進させたという(御領分中寺々由来)

西教寺
さいきようじ

[現在地名]大塔村大字殿野

殿野とのの集落の中央にある。仏光山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。もと寺垣内てらがいとにあり、真言宗で東光院命真寺と称したが、文明七年(一四七五)浄土真宗に転じた。開基は戸野兵衛尉定清の子、鶴若麿(法名重信)という。寛永一七年(一六四〇)に木仏本尊を、明和元年(一七六四)に寺号を許された(「天保下寺帳」西本願寺蔵)。本堂は桁行六間半・梁間六間、柿葺・入母屋造・妻入の大堂で、江戸時代中期の改築。

西教寺
さいきようじ

[現在地名]飯田市伝馬町二丁目

伝馬てんま町の北端に位置する。浄土宗、発遣山と号す。本尊阿弥陀如来。

「伊那郡神社仏閣記」によれば、天文二年(一五三三)真誉が大島おおじま郷に開基。その後兵火に遭い堂宇が焼失したので、同一〇年に伝馬町に移り、同一七年に堂宇を建立した。

西教寺
さいきようじ

[現在地名]坂城町大字村上 上五明

五明村の南、網掛あみかけ村境にある。浄土宗。本尊阿弥陀如来。

寺伝によるともと網掛村越戸こえどにあり、のち寺替に移り、更に島寺に移って後、天正一〇年(一五八二)現在地に移った。

西教寺
さいきようじ

[現在地名]知立市牛田町 西屋敷

国道一号の北、猿渡さわたり川沖積層との境の高台にある。真宗大谷派、牽馬山東漸とうぜん院という。本尊阿弥陀如来。真盛を開基とし、比叡山東坂本西教寺の別院であった。寛正二年(一四六一)真宗に改宗。

西教寺
さいきようじ

[現在地名]木造町 千代町

道路を隔てて実相じつそう寺の北側にある。鶴遊山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。元禄五年(一六九二)の創立で草創は冷意(「寺社領分限帳」国立史料館蔵、「浄土真宗一派縁起」「奥州津軽惣法中草創寺別帳」市立弘前図書館蔵)

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改訂新版 世界大百科事典 「西教寺」の意味・わかりやすい解説

西教寺 (さいきょうじ)

滋賀県大津市にある天台真盛宗の総本山。山号は戒光山。寺伝によれば,推古天皇のとき聖徳太子が創建し,天智天皇のとき阿弥陀仏像を安置,のち最澄が復興したという。980年(天元3)良源が再興して常行三昧を修し,ついで源信も念仏の道場となし,993年(正暦4)暹賀(せんが)のとき御願寺となる。のち1325年(正中2)恵鎮が復興し,大乗円頓戒を興して律寺とした。さらに1486年(文明18)真盛が入寺し,40余の仏殿堂舎を造営し,念仏と円頓戒を興隆した。よって真盛を中興第一祖とする。これより真盛一派が当寺を拠点として栄えたが,1571年(元亀2)織田信長の延暦寺焼打のとき,その余炎で焼失した。8世真源は再建を企て,89年(天正17)復興した。本堂は明智光秀の建立。91年には戒壇も再興された。延宝(1673-81)のころ比叡山の衆徒に当寺を延暦寺の末寺にしようとの動きがあったため,16世真然がこれに反対し,数十年間対立がつづいたが,輪王寺門跡の斡旋でその配下に属することとなり,天台律宗を号した。1872年(明治5)天台宗の支配を受けたが,78年独立して天台真盛派を公称した。1939年公布の宗教団体法により天台宗に統合されたが,47年宗教法人令の施行を契機に独立し,天台真盛宗の総本山となった。本堂および本尊阿弥陀如来像はともに重要文化財。そのほか観経曼荼羅,阿弥陀如来像(迅雲弥陀如来),釈迦如来像,天台大師像各1幅,薬師如来像1体,後土御門天皇,後柏原天皇宸翰各1幅など文化財が多い。境内に明智光秀,米田監物らの墓がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西教寺」の意味・わかりやすい解説

西教寺
さいきょうじ

滋賀県大津市坂本本町にある天台真盛宗(しんせいしゅう)の総本山。戒光山兼法勝(かいこうざんけんほっしょう)西教寺と称する。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。618年(推古天皇26)聖徳太子が恩師の高麗(こま)僧慧慈(えじ)、慧聡(えそう)のために創建したと伝えられる。その後、天台宗が盛んになるに及び、比叡山(ひえいざん)北方にあたる当寺にもその教線が及んだ。天暦(てんりゃく)年間(947~957)に元三慈恵(がんさんじえ)大師良源が復興再建して念仏の中央道場とした。1486年(文明18)中興開山の真盛上人(しんせいしょうにん)が入寺し、40余の堂塔と教法を再興して不断念仏を始め、いまなおその伝統が受け継がれている。1571年(元亀2)織田信長の比叡山焼打ちによって焼失したが、坂本城主となった明智光秀(あけちみつひで)が檀徒(だんと)となって1574年(天正2)に再建され、90年には山城(やましろ)(京都府)粟田口(あわたぐち)にあった法勝寺(ほっしょうじ)と合併した。1878年(明治11)天台宗真盛派本山となり、現在では全国に400余りの末寺をもつ。桃山御殿とよばれる客殿は、伏見(ふしみ)城から移築された書院造の建物で、本尊阿弥陀如来坐像(ざぞう)(平安後期)、梵鐘(ぼんしょう)(平安時代)、薬師(やくし)如来坐像(京都法勝寺伝来、秘仏)などとともに国の重要文化財。境内には明智光秀一族の墓がある。

[中山清田]

『『古寺巡礼 近江5 西教寺』(1980・淡交社)』


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百科事典マイペディア 「西教寺」の意味・わかりやすい解説

西教寺【さいきょうじ】

滋賀県大津市坂本にある天台真盛(しんぜい)宗本山。本尊阿弥陀如来。推古朝の草創と伝え,源信が復興した。1486年真盛が念仏道場とし,横川(よかわ)の別所となった。織田信長のため焼かれたが,豊臣氏の外護により復興した。客殿は伏見城の遺構と伝えられ,迅雲(じんうん)阿弥陀像など浄土,来迎関係の美術品が多い。これらを含め重要文化財は23件。

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旺文社日本史事典 三訂版 「西教寺」の解説

西教寺
さいきょうじ

滋賀県大津市坂本町にある天台宗真盛派の総本山
推古天皇のときの創建と伝えられ,平安時代には源信の念仏道場であったという。1486年真盛が再興したが,1571年織田信長の焼打ちによって焼失し(延暦寺焼打ち),'74年再建。寺内に明智光秀の墓がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西教寺」の意味・わかりやすい解説

西教寺
さいきょうじ

滋賀県大津市坂本本町にある天台真盛宗の総本山。推古期に聖徳太子が高麗の僧,恵慈らのために創建。最澄,良源,源信などが住したが,室町期に真盛が円頓戒と念仏称名の道場として再興し,以来1宗団を形成し,1878年天台宗より独立した。

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事典・日本の観光資源 「西教寺」の解説

西教寺

(滋賀県大津市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

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