西宮(読み)にしのみや

精選版 日本国語大辞典 「西宮」の意味・読み・例文・類語

にしのみや【西宮】

兵庫県南東部の地名。西国街道中国街道分岐点の宿駅。西宮神社門前町として発達。大阪湾に面する低地は江戸時代から清酒醸造業で知られ、食品・鉄鋼などの諸工場が多く、阪神工業地帯の一部を形成六甲山地の南斜面は文教住宅地甲子園球場蓬莱峡などがある。大正一四年(一九二五)市制。

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デジタル大辞泉 「西宮」の意味・読み・例文・類語

にしのみや【西宮】

兵庫県東部、大阪湾に臨む市。西宮神社の門前町、西国街道の宿場町として発達。酒造業のほか、工業も盛ん。山の手は住宅地。美術館や球場がある。人口48.3万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「西宮」の意味・わかりやすい解説

西宮[市] (にしのみや)

兵庫県南東部,大阪湾北岸に位置する市。1925年市制。人口48万2640(2010)。市域は六甲山地によって南北に二分されるが,市街地は海岸の平野部と六甲山地南東麓の台地部に発達し,JR東海道本線をはじめ阪神本線,阪急神戸本線および両私鉄の支線や,名神高速道路,阪神高速道路,国道2号,43号,171号線など主要幹線も南部に集中している。北部を中国自動車道が走る。

 西宮は,はじめ西宮神社の門前町として発達した。江戸中期に灘の酒で知られる清酒の全国的産地となり,現在ではビール,ハム,乳製品などが加わって食料品工業都市となった。しかし西宮の市街地の発展は大正から昭和初期にかけての大阪の衛星都市化の進行によるところが大きく,甲子園,香櫨園(こうろえん),苦楽園,甲陽園,甲東園などの高級住宅地が民間の不動産業者や私鉄などの手で進められた。また甲山(かぶとやま)山麓の台地には,昭和初期,関西(かんせい)学院,神戸女学院が神戸から移転し,現在では多くの大学が立地する学園都市となっている。海岸部は海水浴場として著名であったが,汚染のため1965年閉鎖され,埋立地の造成も進んで昔のおもかげは失われた。しかし今も大阪湾最大のヨットボートの基地となっている。また阪神沿線には甲子園球場があり,甲子園球場は阪神球団の本拠地となっているほか,春夏に高校野球全国大会が開催される。市域北部にはハイキングコースやゴルフ場などレクリエーション施設が多く,また名塩(なじお)の和紙,船坂の寒天など伝統産業が残る。1995年の阪神・淡路大震災では死者1108名,家屋の全半壊3万6000棟という大きな被害を受け,市内の人口は97年現在震災前のレベルまで回復していない。
執筆者:

旧摂津国武庫郡に属し,地名は現在西宮市社家町に鎮座する西宮神社(戎(えびす)社。通称西宮えびす)にちなむ。西宮の名は,1119年(元永2)9月,源師時が広田社に参詣したときの《長秋記》の記事に〈西宮社〉に奉幣したことがみえ,また藤原頼長の《台記(たいき)》の康治元年(1142)正月19日条に,広田社の内と思われる〈西宮宝殿〉が記されているのが古い史料で,もと武庫郡の式内社広田神社の摂社と考えられる。《仲資王記》の建久5年(1194)7月18日条によると,広田社には〈末社戎宮〉があり,また元久元年(1204)8月10日条に同社の〈戎三郎社〉がみえるが,鎌倉時代以降,福徳神・商業神としての〈戎神〉の信仰が盛んになるにつれて,この戎社が広田社から離れて発展し,〈西宮のえびす三郎殿〉として上下の信仰を集め,《伊呂波字類抄》や《簾中抄》では,広田社そのものが〈西宮〉と呼ばれるに至る。

 鎌倉時代,西宮の地には広田社に属して海商をいとなむ〈廻船人〉や,漁民である〈海浜供祭人(ぐさいにん)〉がおり,西宮浜を基地にして活躍した。またここは摂津の二大港湾である兵庫と河尻を結ぶ道に,京都からの山陽道が合流する交通の要所だったので,戎社の敷地内に市場が設けられ,そこが〈西宮最中〉とされた。戎社の祭礼の日などにはここに市が立ち,近隣の浜崎荘春日供菜神人などの魚商人らが集まってきて,イワシその他の魚貝を売りさばき,市を管理する広田社は,それら魚貝商人から1人1荷別3文の市場税を徴収していたという。こうして中世の西宮は,広田社の本所,神祇伯白川家の保護のもとに,戎社の門前町・市町,山陽道の宿駅,内海航路の港町として繁栄した。《海東諸国紀》によると,1468年(応仁2)のころ,摂津国守護細川氏の守護代の一族とみられる長塩備中守吉光という者が〈西宮津〉を基地にして,李氏朝鮮と通交したことが知られる。
(えびす)
執筆者: 近世には戎社を西端として東西方向に町場が開け,西国街道(山崎街道)は町の東端で大坂からの中国街道(山陽道)と合流して町場に入った。西宮は西国街道の宿場町でもあった。この〈町方〉に加えて17世紀後期からは酒造地,港町としての発展があって,町方の南の砂浜に海岸に向けて〈浜方〉の形成が進んだ。釘貫(くぎぬき),中之,鞍懸(くらかけ),久保,石才(在)(いつさい),東之町などの往還筋の町方に対して,浜ノ町,鞍懸浜,久保浜,石才浜,東ノ浜からなる浜方5町が生まれたのである。幕末には町方15町,浜方5町の町場となった。ここでは,伊丹,池田にやや遅れて寛永年間(1624-44)雑古屋文右衛門によって酒の江戸積みが始まったと伝えられるが,延宝期(1673-81)には酒造業は61蔵を数え,1724年(享保9)には82軒に上ってついに伊丹,池田を抜いて江戸積酒造業の先頭に立った。生産した酒は初め伝法(現,大阪市),大坂を経て江戸積みされていたが,1704年(宝永1)からは直積みが開始され,08年には江戸酒積問屋も発足している。浜方は酒のほか干鰯(ほしか)や米,沿岸魚貝類を集散する港町としても栄えた。1617年(元和3)以来町は尼崎藩領で陣屋がおかれていた。尼崎,西宮,兵庫の3町の経済力に強く依存した同藩は,とくに西宮町人の資力に期待し,初期の藩札貞享元年札(1684)の発行にはもっぱら西宮町人を札元として発行しているほどである。18世紀後半には灘地方および町の南東に接する今津村にいわゆる灘三郷酒造業の台頭があり,西宮はこれら新酒造地帯の追込みをうけながらも繁栄を続ける(1819年(文政2)以降灘三郷は五郷に発展するが,西宮が灘五郷のうちの一郷となるのは85年である)。幕府はこの兵庫・灘・西宮地方の繁栄に注目し,1769年(明和6)この地域一帯を幕府領に収公した。以後西宮は大坂町奉行の支配下に入り,勤番所がおかれて幕末に至る。1769年の9778人を最高として,人口は近世後期には8000人前後を保った。
灘五郷
執筆者:

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日本歴史地名大系 「西宮」の解説

西宮
にしのみや

[現在地名]川上村大字神之谷

神之谷こうのたにの清水神社付近一帯の称。後南朝尊義親王の第二皇子忠義王の宮跡と伝える(「更矢記録」小泉家蔵)三之公さんのこ宮跡から西約八キロの地である。

神社は神之谷川の清流に沿い、老木の繁みの中に国常立命ほか一五柱(明治一八年「神社明細帳」)が鎮座する。境内には数百年を経たかとも思える杉の大木がそびえる。文政四年(一八二一)七月の西宮付近絵図(更矢家蔵)によれば、神社の下方一〇〇メートルにある平坦地が後南朝当時の豪族清水氏の屋敷跡で、その上流約二〇〇メートルの平地に当時河野荘司だった更矢家の屋敷がある。

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世界大百科事典(旧版)内の西宮の言及

【灘五郷】より

…灘五郷とは灘の生一本(きいつポん)の銘醸地の総称で,江戸時代の中期以降より急速に江戸積酒造業が発展し,今日にいたるまで全国有数の酒造地を形成している。現在の灘五郷は,兵庫県南東部の海岸寄りにある今津郷・西宮郷(西宮市),魚崎郷・御影(みかげ)郷(神戸市東灘区)と西郷(神戸市灘区)の5郷からなる。しかしこれは1886年に摂津灘酒造業組合が創設されて以来の名称であって,江戸時代の地域区分とは若干異なっている。…

※「西宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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