西太后(読み)せいたいこう(英語表記)Xī tài hòu

精選版 日本国語大辞典 「西太后」の意味・読み・例文・類語

せい‐たいこう【西太后】

中国、清の第九代皇帝咸豊帝(文宗)の妃。第一〇代同治帝穆宗)の生母。諡号(しごう)は孝欽。咸豊帝の死後、同治帝、光緒帝摂政として政治上の独裁権を発揮。革新を要求する戊戌(ぼじゅつ)政変を弾圧して保守政治を行ない、また、義和団事件に際しては、それを扇動して排外政策をとるなど、清朝護持のための反動的な諸政策を強行した。(一八三五‐一九〇八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「西太后」の意味・読み・例文・類語

せい‐たいこう【西太后】

[1835~1908]中国、咸豊かんぽう帝(文宗)の妃で、同治帝(穆宗)の生母。諡号しごう孝欽こうきん慈禧じき皇太后とよばれた。同治帝・光緒帝(徳宗)の摂政となって政治を独占。変法自強運動を弾圧して光緒帝を幽閉、義和団事件を利用して列強に宣戦するなど守旧派の中心となった。シー=タイホウ。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「西太后」の意味・わかりやすい解説

西太后 (せいたいこう)
Xī tài hòu
生没年:1835-1908

中国,清末の同治・光緒年間(1862-1908)の最高権力者。咸豊帝の妃,同治帝の母。満州族,エホナラ氏の出。1852年(咸豊2)咸豊帝の後宮に入り,56年皇子載淳を生んだ。61年咸豊帝が死ぬと載淳が即位し,年号祺祥と改められ,彼女は皇帝の生母として慈禧太后尊称されたが,同年11月恭親王奕訢(えききん)と組んで宮廷クーデタを起こして先帝の寵臣処刑し,年号を同治と改め,先帝の皇后であった慈安太后とともに垂簾聴政を始めた。慈安太后東太后と通称されたのに対し,彼女は西太后と呼ばれた。政治の実権を握った奕訢と彼女は,曾国藩李鴻章らの漢人官僚を操縦して,太平天国をはじめとする諸反乱を鎮圧した。75年同治帝が病死すると彼女は自分の甥にあたる4歳の載湉(さいてん)を強引に帝位につけ,光緒と年号を定め,再び東太后とともに垂簾政治を行った。国内的には洋務派と保守派の対立を利用して反対勢力の成長を防ぎ,対外的には列強に多大な利権を与えながらも中華の体面を保とうと努めた。

 東太后が死に,84年(光緒10)に奕訢が失脚すると,清朝の政権は彼女一人に集中した。89年光緒帝の親政を許したが,先んじて北京西郊に別荘として頤和園(いわえん)を営み,その費用に海軍経費を流用させた。皇帝親政後も最高権力は彼女の手中にあったが,日清戦争の敗戦後,皇帝派官僚の発言力が増し,98年には変法派による政治革新が行われた。これに対し彼女は袁世凱の武力を背景に戊戌(ぼじゆつ)政変を起こして新政を失敗させ,変法派を処刑・追放し,光緒帝を幽閉して,三たび垂簾政治を始めた。1900年義和団の反乱が起こるとこれを利用して親帝的な列強に宣戦したが,8ヵ国連合軍の北京占領にあって西安に逃亡し,媚外(列強におもねる)政策に方針を転じて翌年北京議定書を結んだ。以後孫文らの革命運動を弾圧しつつ,清朝の維持存命のため,変法派の改革案をまねて立憲政治への転換を装った新政に着手したが,すでに手遅れであった。08年,光緒帝の死の翌日,3歳の溥儀(ふぎ)を次の帝位につけることを決めて病死した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「西太后」の意味・わかりやすい解説

西太后【せいたいこう】

中国,清朝の咸豊帝の側室。懿貴(いき)妃とも。葉赫那拉(エホナラ)氏。同治帝の生母。咸豊帝の死後,恭親王らと結んで旧指導勢力を一掃し,東太后とともに1861年同治帝の摂政となる。その死後は光緒帝の摂政となり,前後40年間にわたり,衰微に向かった清朝を維持した。1889年光緒帝に親政を許したが,その戊戌(ぼじゅつ)変法を保守派の支持を得て抑圧し,帝を幽閉,再び摂政となった。その保守的政策のため,1900年義和団事件が起こり,敗北するや,諸制度の改革に努めた。諡(おくりな)を孝欽顕皇后という。
→関連項目頤和園醇親王奕【かん】醇親王載【ほう】

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西太后」の意味・わかりやすい解説

西太后
せいたいこう
Xi-tai-hou; Hsi-t`ai-hou

[生]道光15(1835).10.10.
[没]光緒34(1908).10.22. 北京
中国,清朝,咸豊帝の側室で,同治帝の生母である慈禧 (じき) 皇太后のこと。エホナラ (葉赫納喇) 氏の出身。咸豊帝の没後,同治帝が5歳で即位すると,恭親王奕 訢とはかり,クーデターで反対派を一掃,東太后とともに摂政となった。同治 13年 (1875) 同治帝が死ぬと,自分の妹の子を立てて光緒帝とし,みずから摂政となった。光緒 13 (87) 年から光緒帝の親政が始ったが,国政の実権は西太后が握り,同 24年光緒帝が立憲君主制への転換をはかると,クーデターでこれを妨害し,帝を幽閉した (→戊戌の変法 ) 。義和団の排外運動が高揚すると,自己保身のためこれを利用し,列強に宣戦を布告したが,8ヵ国連合軍の侵入を受け,敗れて西安へ逃げた。あらゆる進歩的改革に反対してきた西太后は,北京帰還後は立憲準備,実業,教育の振興などの新政を実施したが,対外的には排外政策から屈辱的外交に一転し,中国の半植民地化はますます深刻となった。革命運動,立憲運動の高揚のなかで光緒帝と相前後して死んだ。

西太后
せいたいごう

西太后」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「西太后」の解説

西太后(せいたいこう)
Xitaihou

1835~1908

清の咸豊(かんぽう)帝の側室で,同治(どうち)帝の生母。葉赫納拉(エホナラ)氏の出身。慈禧(じき)太后ともいう。咸豊帝の死後,恭親王奕訢(えききん)らと結んで咸豊帝時代の指導的勢力であった鄭親(ていしん)王や粛順らの一派を一掃し,東太后とともに摂政の位についた。同治帝の死後は妹(醇親(じゅんしん)王の妃)の子を立て光緒帝とし,みずからは摂政としてますます権勢をふるうようになった。1889年,光緒帝に親政を許したが,監視を怠らず,98年光緒帝が変法に着手するとたちまちこれを弾圧して幽閉し,再び摂政の任につき,頑固な保守的排外派に動かされて義和団事件を助け,列国の侵略を招いた。事件後は従来の保守的態度を改めて諸制度の改革に努めたが,光緒帝の病死の翌日に死亡した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「西太后」の解説

西太后
せいたいこう

1835〜1908
清の咸豊 (かんぽう) 帝の側室
同治帝穆宗 (ぼくそう) の生母。同治帝が即位すると,咸豊帝の皇后慈安太后(東太后)とともに摂政になり,恭親王奕訢 (きようしんおうえききん) の援助と曾国藩・李鴻章 (りこうしよう) ら漢人官僚の重用により,同治中興を実現。同治帝の死後,妹婿の子光緒帝を擁立し,摂政として政治を独裁した。変法運動が起こると,保守勢力を結集してこれを抑圧(戊戌 (ぼじゆつ) の政変)。義和団事件を支持し,清朝滅亡の原因をつくった。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西太后」の解説

西太后 せいたいこう

1835-1908 清(しん)(中国)の咸豊(かんぽう)帝の妃(側室)。
道光15年生まれ。子の同治(どうち)帝,ついで甥の光緒(こうしょ)帝の摂政となり,政治の実権をにぎる。1898年変法(革新)派を弾圧,1900年には義和団の乱を扇動して列強の中国進出をまねいた。光緒帝の死の翌日,光緒34年10月22日溥儀(ふぎ)を次の皇帝ときめて死去。74歳。尊称は慈禧(じき)太后。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「西太后」の解説

西太后 (せいたいこう)

生年月日:1835年11月29日
中国,清朝の咸豊帝の側室
1908年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西太后の言及

【頤和園】より

…1860年(咸豊10),英仏連合軍により焼尽。88年(光緒14),西太后が再建して頤和園と改称。1900年,義和団事件で再び破損したが,3年後に修復された。…

【袁世凱】より

…趙秉釣(ちようへいきん)に警察,梁士詒(りようしい)に鉄道・銀行,楊士琦に汽船・電報,周学熙に炭鉱をやらせる,といったぐあいである。もちろん,満州貴族にもぬけめなく取りいったのであって,戊戌(ぼじゆつ)政変のさいには維新派を裏切って最高権力者西太后の寵を得た。〈内ニ親貴ト結ビ,外ニ党援ヲ樹(た)ツ〉と評されるゆえんである。…

【光緒帝】より

…光緒は年号。父は道光帝の第7子醇親王奕譞(えきかん),母は西太后の妹。同治帝が嗣子なく死ぬと権勢維持をはかる西太后により,皇位継承の原則を破って数え4歳で皇帝に擁立された。…

【清】より

…このとき,列強は第2次アヘン戦争をしかけるが,清朝は列強に屈服することにより,その援助を得てようやく太平天国を鎮圧したのである。 この間,清朝権力の中枢で政変が起こり,権力は西太后らの一派に帰した。1861年(咸豊11)のいわゆる辛酉(しんゆう)政変である。…

【纏足】より

…時を経て下層階級に及び,最盛期を迎えた清代,満州人にも流行の兆しがみえて,康熙帝,乾隆帝が禁止令を出し,袁枚(えんばい),兪正燮(ゆせいしよう)ら学者が反対論を唱えたが,効を奏さなかった。その後太平天国も禁止し,清末に在華ミッション団体による廃止運動や,康有為が広東で発起した〈不裹足会〉の反対運動を機に,各地で〈天足(自然の足)会〉〈不纏足会〉が組織されたり,自ら纏足であった西太后が禁止令を発して徐々に衰えたが,なお徹底せず,民国時代にも遺風は残り,新中国成立後ようやく根絶をみた。【鈴木 健之】。…

※「西太后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android