西周(にしあまね)(読み)にしあまね

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西周(にしあまね)」の意味・わかりやすい解説

西周(にしあまね)
にしあまね
(1829―1897)

啓蒙(けいもう)思想家。石見国(いわみのくに)(島根県)津和野に藩医の子として生まれる。名は時懋(ときしげ)。幼名を経太郎(みちたろう)、長じて周助と称し、のち周と改めた。幼少より学問を好み、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となった。朱子学を奉じながら徂徠学(そらいがく)を好んだ。

 1853年(嘉永6)江戸詰(えどづめ)となり、ペリー来航の情勢のなかで西洋学へ転じ、ついに脱藩して手塚律蔵の門に入り、蘭学(らんがく)を修め、ついで英学を志した。1857年(安政4)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の開設とともに教授手伝並(てつだいなみ)となり、1859年医師石川有節の娘升子(ますこ)(1841―1921)と結婚した。1863年(文久3)、軍艦買付けのためにオランダに向かう幕府使節に加わって、同僚津田真道(つだまみち)らとオランダ留学へと出発、ライデン大学のフィセリングSimon Vissering(1818―1888)教授のもとで、法律・経済・哲学などを熱心に学んだ。

 1865年(慶応1)帰国し、翌1866年開成所教授に昇進、留学中の講義ノート「万国公法」などの翻訳に従事した。この年、京都に上り将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の顧問としてフランス語の教授にあたった。また、1867年、大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出した。このころ、自宅に私塾を開設し西洋思想を講義した。1874年(明治7)に出版された『百一新論』は、このときの講義筆録をもとにしている。

 1868年、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに続く混乱をくぐり抜けて、ようやく江戸に帰ったのち、徳川の遺臣たちが子弟の教育のために沼津に設立した兵学校頭取として招かれ、制度の確立にあたった。1870年(明治3)、政府の命により東京に移って兵部省に出仕山県有朋(やまがたありとも)のもとで近代的な軍事制度の創設に携わった。公務のかたわら自宅に私塾育英舎を開設し、「百学連環」などを講義した。哲学者清野勉(きよのつとむ)(1853―1904)はここに学んだ一人である。

 1873年に森有礼(もりありのり)らと明六社(めいろくしゃ)を結成し、精力的に啓蒙活動を展開した。『明六雑誌』に、功利主義に基づく倫理思想を展開した「人世三宝説」(1875)をはじめ多くの論文を寄稿し、また、J・S・ミルの『A System of Logic』による論理学書『致知啓蒙』(1874)、同じミルの『Utilitarianism』の翻訳『利学』(1877)などを刊行した。このほか、心理学、美学などの著書もある。その後、東京師範学校(現、筑波(つくば)大学)校長、学士会院院長、貴族院議員などを歴任、1897年男爵に叙せられ、同年(明治30)没した。

[渡辺和靖 2016年9月16日]

『大久保利謙編『西周全集』全4巻(1966・宗高書房)』


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