裁判心理学(読み)さいばんしんりがく(英語表記)court psychology

最新 心理学事典 「裁判心理学」の解説

さいばんしんりがく
裁判心理学
court psychology

裁判の過程における人間行動の課題を扱う心理学応用分野の一つである。裁判の過程にかかわる問題であればすべて含まれうる。ただし,「裁判」といっても公判trialの過程だけでなく,刑事事件での警察や検察の捜査も含まれることがある。

【裁判心理学の類似概念】 類似概念の主なものとして法心理学forensic psychology,犯罪心理学criminal psychology,捜査心理学investigative psychologyがある。このうち法心理学は法律学と心理学の境界領域一般を指し,双方の領域における理論研究の深化のための相互作用が期待されている。そこには刑事事件にかかわる心理学的な諸問題をはじめ責任帰属や社会的公正の研究などの基礎的な問題や民事事件に関するテーマも含まれる。犯罪心理学には犯罪の原因,発生,加害者の処遇,鑑定,被害者の扱いなどが含まれ,犯罪捜査に対する心理学の応用という意味では裁判心理学と重なりがあるが,裁判心理学は主として裁判の運営という観点から見た分野であるため,警察の捜査よりも前の犯罪の原因や発生,また裁判が終わった後の加害者の処遇や被害者の取り扱いについてはカバーしていないことがある。捜査心理学は警察における捜査への心理学の応用をめざしたものであり,たとえばプロファイリングや虚偽検出,取り調べの技法などが含まれる。裁判の前段階に焦点が当たっているため,裁判心理学がカバーする領域のうち,主に警察による捜査にとくに焦点を当てた分野である。

【裁判心理学で扱われる主なテーマ】 たとえば,目撃証言や目撃の記憶の正確性,裁判における判断者の判断に影響する要因裁判官や陪審の意思決定,陪審員制裁判での科学的陪審選択などがある。目撃証言eyewitness testimonyが大きなテーマとなっているのは,記憶研究が心理学的になじみやすいことと,裁判でよく証拠として採用されるにもかかわらず誤りが入り込みやすいという事情がある。裁判における判断者には,裁判官のほかに裁判制度によって,陪審員,参審員,日本では裁判員が挙げられる。そういった判断者に対し,裁判の当事者の主張・立証の方法や説得の働きかけが影響を与えるのか,被告人や当事者の印象は判断に影響するのか,というテーマも裁判心理学のテーマとして挙げられる。裁判の判断者は社会的に隔離されていない限りさまざまな事件報道にさらされている。そのような報道の影響が裁判で現われないか,とくに裁判が始まる前の報道が判断者に影響を与えないかについて公判前報道の影響が大きな問題とされる。また,判断者は1名または複数で裁判の判断にあたる。1名の判断過程を検討したい場合には意思決定の問題,複数人の判断過程を検討したい場合は集団意思決定の問題となる。

【裁判過程への心理学の応用について】 裁判心理学は心理学から見ると,比較的抵抗なく理解できる分野であるが,応用分野が裁判であることから,裁判手続きや司法制度,それを支えるルールと法の考え方や議論の仕方について知らないと意義のある問題設定をすることが難しくなる。一方,法学から見ると,心理学は人間行動をシステマチックかつ実証的に扱うことができる分野として重要な意味をもつはずだが,法の世界の中でその重要性が認められるためには多くの課題がある。法解釈学では,主として条文などの文言解釈から規範を導き出し,現実の問題に適用して問題解決を図る。ただ,その解釈に必要になる人間行動に関する知識は解釈学からは得られないため,過去の先例を参照したり,他分野の知識を参照する必要がある。したがって,法解釈学は潜在的につねに心理学などの人間行動の知識を必要としている。しかし,裁判における判断者や法律の運用者にとっては,人間行動についての専門家としてその知識を提供する者は,自分たちの判断に介入し,判断の自由裁量や自律性を脅かすものと映ることがある。そのため,心理学の知識を用いて裁判の世界に入り,その判断過程に貢献しようとすることは,法の世界では異端と見られることがある。たとえば日本における供述心理学などはその一例である。アメリカにおいても心理学者の専門家証人に裁判で証言を許すかについても,幾多の衝突や変遷を経ている。韓国は裁判所に心理学者の心理学アドバイザーを置く制度をもつが,これほどに心理学を法廷に取り入れている国は世界の中でも少ない。

【近代心理学と裁判心理学の黎明】 裁判に心理学を応用しようという動きは,近代心理学の中では新しいものではない。近代心理学のあけぼのは1879年にブントWundt,W.が心理学実験室を作ったときとされるが,その14年後の1893年にはキャッテルCattell,J.M.が記憶と証言に関する研究を行なった。これは大学生に1週間前の天気を回答させるという簡易なものであった。しかし,キャッテルの記憶と証言に関する研究は,ビネーBinet,A.やシュテルンStern,W.,リストLiszt,F.vonなどの研究者たちの証言に関する研究を生んだ。一方,法律実務家からはグロースGross,H.の『予審判事必携』(1893)が出るなど深い関心が見られた。日本でも,刑法学者の牧野英一が心理学者の寺田精一と共同で実験を行なっている。

 裁判に関する心理学的研究の体系化の動きとしては,ドイツでは,1924年にハフ,Haff,K.が『法心理学Rechtspsychologie』という書を出版したことが特筆される。日本では植松正が1949年に『裁判心理学の諸相』を出版しており,日本で最初に「裁判心理学」を書名に用いた。この書によって犯罪心理学を超え,より一般的なかたちで法律学と心理学とを結びつける動きが始まった。しかし,後に法社会学が「法に関する経験科学」の総称として定着したため,裁判心理学は法社会学の一部として理解されるようになった。

【裁判心理学の再発見】 かつては裁判への心理学的研究の応用は範囲が狭いなどの欠点があったため,ドイツやアメリカなどでも顧みられなかったが,近年,欧米のみならず,日本でも裁判心理学に関連する学会が複数存在するようになり,活発に活動している。きっかけとして,凶悪事件の発生や,証人の証言能力や目撃証言の正確性,陪審の判断やその過程が注目を集めたことがあった。また日本では,冤罪事件の広範な報道や裁判員制度の導入をきっかけに,この分野が近年ますます注目されるようになっている。裁判心理学は,社会的関心の高まりを背景として,今後の発展が見込まれる分野の一つといえるだろう。 →司法精神医学 →捜査心理学 →犯罪心理学 →法心理学
〔藤田 政博〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「裁判心理学」の意味・わかりやすい解説

裁判心理学
さいばんしんりがく
forensic psychology

裁判心理学という心理学の領域や体系はまだ確立したものではないので、現在の時点では、裁判に関連する事柄に関した心理学という程度の意味に解しておくのがよいであろう。これを歴史的にみると、オーストリアの刑事学者ハンス・グロスHans Gross(1847―1915)による証言や供述の信憑(しんぴょう)性、正確さに関する研究に発しており、日本では心理学者であり刑法学者でもある植松正(うえまつただし)(1906―99)が、この種の課題についての実験心理学的研究を行い、「裁判心理学」の名を冠した著書がある。

[瓜生 武]

研究の内容

現在までのところでは「裁判心理学」即供述(証言)の心理学であるといってよいが、これを広く裁判にかかわる事柄に関する心理学と解すると、およそ次のような研究を含めて考えることができる。

[瓜生 武]

犯罪捜査の心理学

特定の犯人に特徴的にみられる行動類型(たとえば犯行手口の反復性)の研究、犯行(被害)の形態から痴情か物取りかなど動機を推定する方法の研究、犯人に共通する心理から、犯行後の行動(たとえば立回り先や自殺の危険)を推定する方法の研究など、従来、捜査官の勘といわれてきたものの統計的・理論的検証のほか、供述に際しての生理的反応の測定を応用したうそ発見器の開発やポリグラフ検査法の研究、そのほか捜査面接法の研究などがあげられる。

[瓜生 武]

裁判過程の心理学

刑事裁判の過程は、大別して、(1)被告が起訴されている犯罪行為を行ったか否かを判断する事実認定の過程と、(2)その行為がいかなる刑罰法令に該当し、いかなる刑罰を加えるのが相当かを判断する量刑の過程とに分けられる。

 前述した証言の心理学は前者の過程に関する研究であるが、後者の過程には裁判官の主観的要素が入り込む余地があり、どのような裁判官がどのような判断を示しやすいかといった問題があり、この種の研究は「経験法学」とよばれる法学の一学派によって進められている。また、認定された事実に法を適用する際の法解釈の基礎にある「法感情」についての心理分析も、心理学と法学の境界研究としての試みがある。量刑にあたっては犯行の動機や、その背景にある被告の性格・行動傾向の分析から、刑罰の矯正効果についての予測を求める鑑定なども徐々に心理学者によって試みられている。

[瓜生 武]

刑罰の心理学

刑法学の基礎には、刑罰の犯罪抑制効果についての理論仮説があるが、一般人に対する予防効果は社会心理学の研究課題であり、具体的犯罪者に対する矯正効果は臨床(矯正)心理学の研究課題である。このほか、民事裁判の問題も含め、これらのテーマを関連づけ体系化した裁判心理学はまだ実現していない。

[瓜生 武]

『植松正著『裁判心理学の諸相』(1958・有信堂高文社)』『ゼーリッヒ著、植村秀三訳『犯罪学』(1962・みすず書房)』『安香宏・麦島文夫編『犯罪心理学』(1975・有斐閣大学双書)』『菅原郁夫著『民事裁判心理学序説』(1998・信山社出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「裁判心理学」の意味・わかりやすい解説

裁判心理学 (さいばんしんりがく)

裁判およびその関連手続における心理学的問題を取り扱う応用心理学の一部門。供述証拠(被告人の自白を含む)の証明力に関する供述心理学や,裁判での心証形成過程を解明しようとする裁判過程論がその主要内容である。犯罪および犯罪者の心理に関する犯罪心理学(犯罪学)は,現在ではこれらとは別の独立した学問分野となっている。

20世紀初めごろからドイツを中心にヨーロッパ諸国で研究が本格化した。グロースらの刑事司法実務家が実務経験を基礎にしたのに対し,シュテルンやリップマンらは実験心理学的手法を採り入れた。20世紀後半,ヘルウィヒ,グラスベルガー,ウンドイッチュらにより体系化が試みられている。一方,アメリカでは,ウィグモアやモーガンらの証拠法学者が〈証明の科学化〉の観点からの研究を行い,とくに,証人の供述過程を,観察,記憶,表現,叙述に分析したことは有名である。日本では,寺田精一,小熊虎之助,植松正らの研究成果がある。従来得られた知見は,個々の供述の正確性・信憑(しんぴよう)性の判定に直接資するものというよりも,供述の心理的プロセスの一般的傾向や類型に関するものである。例えば,質問の有する暗示力や幼児の強度の被暗示性,証言項目ごとの供述の誤謬の程度(長さの目測,色彩に関する供述には誤りが多いが,形状や人数に関しては比較的正確であること等),供述者の特性(年齢,性別,性格,精神状態等)と供述傾向との関連,供述に伴う身体上の変化(これに着目したものがポリグラフである)等の研究がある。今後の課題として,第1に,個々の供述に関して,供述の動機,態度,供述内容自体の精密な分析により,供述の真否を判断するミクロ的方法の発展があげられる(トランケルらの方法)。第2に,従来のマクロ的方法の成果をもとに,裁判上の立証機構を検討・評価し,これに改善を加えることがあげられる。証人尋問のメカニズム(尋問の主体,形式,順序,場所,環境等),宣誓制度の有効性,当事者本人の供述の証拠価値,上訴審での証言等に関し,検討が加えられるべきである。

裁判過程論の一つの方法は,裁判官の性格,経歴,環境等と裁判の結果との関連を社会心理学の手法で分析することである。アメリカのリアリズム法学の影響が強い。現在では判決予測も行われている。第2の方法は,裁判官が証拠を評価し,確信に達するまでの心理過程を分析し,一定の法則や概念で説明しようとするもので,シュタイン,ボーネ,ウィグモアらの研究がある。それらによれば,裁判における事実判断は,単なる受動的論理的操作にとどまらず,裁判官の全経験に基づく決断を含むきわめて主体的な心理的作用である。ウィグモアの提唱する図式法chart methodは,心証形成過程を符号で図式化することにより,このような判断過程での証拠の取捨選択の誤りや軽率な判断を防止しようとするものである。英米法の証拠法則には,こうした分析の成果と合致するものが多い。裁判過程論の今後の課題は,裁判における事実審理機構の改善に寄与すべきことである。例えば,陪審と職業裁判官との優劣を実証的に分析すること,捜査記録が裁判官に与える影響を測定し,その取扱方法を検討すること,公判の開廷方式に関し,連続開廷と非連続開廷の長短を調査すること,上訴審での証拠調べの意義を吟味すること等である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「裁判心理学」の意味・わかりやすい解説

裁判心理学
さいばんしんりがく
forensic psychology

裁判過程にかかわる心理的な諸問題に関しての実証的な研究を行う心理学。歴史的には証言の信頼性に関する A.ビネの研究に始るといわれるが,そのほか,違法者の心理的背景の調査研究,違法者のパーソナリティ研究,犯罪者の精神鑑定,裁判官や弁護士のパーソナリティ研究などが含まれる。

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