日本大百科全書(ニッポニカ) 「表千家」の意味・わかりやすい解説
表千家
おもてせんけ
千利休(せんのりきゅう)を祖とする茶道の流派の一つ。裏千家、武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)とともに三千家とよばれている。「不審庵(ふしんあん)」の名で通称される。1591年(天正19)利休切腹のあと千家は断絶し、長男の眠翁道安(どうあん)(1546―1607)は飛騨(ひだ)(岐阜県)か阿波(あわ)(徳島県)にかくまわれたといわれている。一方、養嗣子(ようしし)の少庵宗淳(そうじゅん)(1546―1614)は、利休の娘亀女と結婚して子をもうけていたが、母宗恩(そうおん)が利休の後妻となるに及んで、夫婦ともども千家に入った。しかし利休切腹と同時に会津若松の蒲生氏郷(がもううじさと)に預けられた。その後数年を経て、秀吉より千家再興が許され、京都に戻ってきた少庵は本法寺前の屋敷に落ち着き、千家2世を継承した。少庵はここに色付九間之書院残月亭(ざんげつてい)と不審庵の茶席を建てた。不審庵とは利休の別号であるが、少庵もこの号を名のっていたと思われる。しかし少庵はまもなく子の宗旦(そうたん)(1578―1658)に千家を譲り、洛西(らくせい)西芳寺(さいほうじ)の湘南亭(しょうなんてい)に隠棲(いんせい)したと伝えるが確証は得がたい。
千家3世を継いだ宗旦は、10代のなかばには長男宗拙(そうせつ)(?―1652)と次男一翁宗守(いちおうそうしゅ)(1593―1675)の2人をもうけていたが、その後、後水尾院(ごみずのおいん)の中宮東福門院の女房であった宗見(そうけん)を後妻として迎え、三男江岑宗左(こうしんそうさ)、久田宗利(ひさだそうり)の妻となったくれ女、そして四男仙叟宗室(せんそうそうしつ)をもうけている。かくして宗旦が71歳になった1648年(慶安1)に、不審庵を江岑に譲り、同所の北に今日庵(こんにちあん)を建てて末子仙叟とともに移り住んだ。その後、次男宗守が官休庵を建て、千家は3家に分かれるようになったのである。
不審庵を譲られた江岑宗左(1619―1672)は表千家4世となり、堪笑軒、逢源斎(ほうげんさい)と号した。それより以前1642年(寛永19)には、紀州徳川家に仕え、茶道役となっている。江岑は藩主より系譜や由緒書を求められ、『千家由緒書』を献上している。また父宗旦の説話を集めた『江岑夏書(こうしんげがき)』を1663年(寛文3)に書き終えている。5世随流斎(ずいりゅうさい)宗佐(1660―1701)は、宗旦の娘くれと久田宗利との間に生まれたが、寛文(かんぶん)の初めごろ表千家に迎えられ、宗巴(そうは)と称し、良休と号している。
6世覚々斎(かくかくさい)原叟宗左(げんそうそうさ)(1678―1730)は、久田宗全の子として生まれたが、12歳のころ随流斎の養子となり、表千家を継いだ。しかし若くして養父を亡くしたため、80歳で健在であった叔父藤村庸軒(ようけん)の薫陶を受け、父祖以来の紀州家に仕えた。藩主頼方(よりかた)はわび茶を好んで原叟を師として学び、やがて吉宗(よしむね)と改め8代将軍となってからも、原叟が江戸へ下ったおりに唐津茶碗(からつちゃわん)を与えるほどであった。この茶碗は桑原茶碗(くわはらちゃわん)といい、表千家の家宝となっている。原叟は内室秋との間に3子をもうけており、長子如心斎は表千家を継ぎ、次男宗乾(そうけん)と三男一燈は裏千家の養子となっている。門下に江州(滋賀県)彦根の町田秋波、芸州侯の茶道役三谷宗鎮(みたにそうちん)、堀内仙鶴(ほりのうちせんかく)、松尾宗二(まつおそうじ)、伊丹宗朝(いたみそうちょう)などがある。
7世如心斎宗左(1706―1751)は天然(てんねん)とも別号する。如心の斎号は紀州侯より賜ったものである。如心は当時の茶の湯に新風を入れるため、弟の一燈宗室をはじめ、経済的援助を受けていた三井八郎右衛門(みついはちろうえもん)、川上不白(かわかみふはく)、大徳寺の無学和尚(おしょう)、塗師(ぬし)中村宗哲、堀内宗心などと協議して七事式(しちじしき)を制定した。8世啐啄斎(そったくさい)宗左(1744―1808)のときに、天明(てんめい)の大火によって建物のすべてを焼失したが、その年のうちに再興し、利休二百回忌の茶会を催している。以後9世了々斎(りょうりょうさい)宗左(1775―1825)、10世吸江斎(きゅうこうさい)宗左(1788―1860)、11世碌々斎(ろくろくさい)宗左(1837―1910)、12世惺斎(せいさい)宗左(1865―1937)、13世即中斎(そくちゅうさい)宗左(1901―1979)と続き、現在而妙斎(じみょうさい)宗左(1938― )が京都市上京(かみぎょう)区の不審庵で14世家元を継承している。
[筒井紘一]