行田(読み)ギョウダ

デジタル大辞泉 「行田」の意味・読み・例文・類語

ぎょうだ〔ギヤウだ〕【行田】

埼玉県北部の市。江戸時代阿部氏松平氏などの城下町もと足袋生産で知られ、現在は輸送機械工業が盛ん。古墳が多く、さきたま風土記の丘がある。平成18年(2006)1月南河原村編入。人口8.6万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「行田」の意味・読み・例文・類語

ぎょうだ ギャウだ【行田】

埼玉県北部の地名。延徳年間(一四八九‐九二)成田親泰(ちかやす)が忍(おし)城を築いて以来、城下町として発展。江戸時代から足袋(たび)の生産で知られ、第二次世界大戦後は被服工業が発達。全国最大といわれる円墳「円墓山(まるはかやま)」、金象眼銘文のある鉄剣(国宝出土で知られる「稲荷山(いなりやま)」などの古墳は埼玉古墳群として史跡指定され、一帯は「さきたま風土記の丘」公園になっている。昭和二四年(一九四九市制

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改訂新版 世界大百科事典 「行田」の意味・わかりやすい解説

行田[市] (ぎょうだ)

埼玉県北部の市。2006年1月旧行田市が南河原(みなみかわら)村を編入して成立した。人口8万5786(2010)。

行田市の大部分を占める旧市。1949年忍(おし)町が市制施行して改称。54年須加,荒木,北河原,埼玉(さきたま),星宮の5村,57年太田村を編入。人口8万4720(2005)。荒川扇状地東端の湧水地帯から利根川南岸の加須(かぞ)低地にまたがる。開発の歴史は古く,東部には埼玉(さきたま)古墳群(史),西部の熊谷市にかけては条里遺構が残る。文明年間(1469-87)に成田親泰(ちかやす)が忍城を築いてから城下町としての歴史が始まり,江戸時代は忍藩が置かれて譜代の重臣が城主となり,行田足袋の生産も起こった。明治以後,足袋の町として全国に知られたが,第2次世界大戦後は服装の変遷とともに被服,靴下,スリッパなどに転換,1960年代に機械,金属などの工場も誘致された。秩父鉄道と国道125号線は市街地を通るが,JR高崎線と国道17号線は市域の南端をよぎっているにすぎない。県下有数の穀倉地帯で,水田の構造改善事業も進んでいる。68年北部の須加地先に完成した水資源開発公団による利根大堰と武蔵水路は現代科学の粋を集めた施設で,新しい観光地でもある。その沈砂池から直接引水する行田浄水場は1984年に完成,県北の給水事情は改善された。市街地南東方の埼玉古墳群一帯は〈さきたま風土記の丘〉として史跡公園になり,稲荷山古墳は国宝〈金錯銘鉄剣〉の出土で知られる。

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行田市北西端の旧村。旧北埼玉郡所属。人口4095(2005)。利根川と荒川にはさまれた低地にあり,熊谷市と旧行田市に囲まれている。古くは河原郷と呼ばれた。耕地のほとんどは水田であるが,経営規模が零細なため第2次大戦前から履物の生産や行商が行われてきた。1950年代半ばからスリッパの生産が盛んとなり,60年代後半には全国的産地となった。鉄道は通じないがバス交通が発達しているので,70年代後半からは熊谷市,旧行田市など周辺地域への通勤者が増えている。観福寺に南河原石塔婆(史)がある。
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世界大百科事典(旧版)内の行田の言及

【忍】より

…武蔵国埼玉郡の地名。現在の埼玉県行田(ぎようだ)市。利根川と荒川の乱流によって形成された沖積平野の自然堤防上に位置する。…

※「行田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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