行徳塩田(読み)ぎょうとくえんでん

改訂新版 世界大百科事典 「行徳塩田」の意味・わかりやすい解説

行徳塩田 (ぎょうとくえんでん)

近世,下総国葛飾郡行徳領(幕領)に存在した江戸湾(東京湾)最大の入浜塩田。行徳地方には後北条氏治下にも塩浜の存在が知られるが,入浜塩田として整備されるのは徳川氏の関東入部以降である。家康は1590年(天正18)江戸に入府するや,生活必需品である塩の重要性にかんがみ,江戸近辺の塩田の保護をはかり食塩の確保につとめた。1596(慶長1)塩浜新開奨励のため諸役を免除し,また家康,秀忠,家光の3代にわたって塩田開発のため多額の資金を下付し,積極的な塩業政策を行っている。1702年(元禄15)の検地によると塩浜面積は191町余歩,1筆の平均面積は2反弱,1名請人平均段別は3反8畝余であった。これは瀬戸内十州(10ヵ国)塩田の経営面積1町~1町5反に比較するときわめて狭小である。そのため,狭い塩田面を有効に利用する関係から,鹹水(かんすい)採取方法も十州塩田にみられる固定式の沼井(ぬい)取法(台取法)と異なり,移動式の笊(ざる)取法が用いられている。塩釜には焼貝殻粉粘土釜(耐久力は24日程度)が使用され,燃料は葭,萱,篠笹,松葉であった。農間余業のため操業は6~7月に集中した。1815年(文化12)の生産高は184町歩で3万6820石,塩浜年貢は1702年当時永507貫余で,そのうち4分の1にあたる1250石が御用塩として江戸城本丸御数寄屋へ納められている。年貢に納められた残余の塩は,江戸府内および関東奥地に売却された。江戸への販売は,はじめ振売の形態がとられたが,やがて塩屋と唱える問屋商人が出現した。これらの塩商人は享保期,江戸湾岸産塩を取り扱う地廻塩問屋として幕府から公認され,その数は76軒であった。一方,関東奥地への販売は行徳塩問屋(6軒)の手によって行われたが,この問屋の扱う塩は〈行徳古積塩〉と呼ばれ,にがり,水分を除去した精製塩で好評を博した。しかし行徳塩田は十州塩の圧迫に加え,明治以降たびたび災害に見舞われて減少の一途をたどり,1929年廃止された。
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百科事典マイペディア 「行徳塩田」の意味・わかりやすい解説

行徳塩田【ぎょうとくえんでん】

江戸時代,下総(しもうさ)国行徳(現千葉県市川市)にあった入浜(いりはま)塩田。関東に入部した徳川家康が塩田の開発・保護を図るため,諸役の免除や資金の給付を行ったことから,1702年当時の塩浜面積は191町余にのぼった。1815年には184町余で3万6820石(こく)を産し,江戸城には御用塩として1250石を納めた。塩田の有効利用のため移動式の笊取(ざるとり)法によって鹹水採取が行われた。年貢以外の残余の塩は江戸で振売(ふりうり)によって売られ,のちには幕府公認となる塩屋が扱うようになった。関東の奥地には行徳の塩問屋(といや)によって販売され,好評を得ていた。

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