蠣崎氏(読み)かきざきうじ

百科事典マイペディア 「蠣崎氏」の意味・わかりやすい解説

蠣崎氏【かきざきうじ】

中世蝦夷(えぞ)地の南西部,現在の北海道渡島(おしま)半島に居住した和人シャモ)の豪族。江戸時代の松前藩松前氏の祖。初め武田氏を称したが,のちその居城である下北半島の蠣崎城(青森県むつ市川内町)の名をとって蠣崎氏を名乗った。15世紀の北海道の道南(どうなん)は小豪族が割拠し,それぞれが(たて)を築いてアイヌと和人の交易などを支配していた。蠣崎氏は1457年のコシャマインの戦契機として統一を進め,1514年上之国(かみのくに)の花沢(はなざわ)館から松前へ移住。1593年豊臣秀吉から蝦夷地渡海の商船に対する独占的課税権を認められ,1599年松前氏と改称。江戸時代の蝦夷地唯一の大名として明治維新に至る。→道南十二館

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改訂新版 世界大百科事典 「蠣崎氏」の意味・わかりやすい解説

蠣崎氏 (かきざきうじ)

中世の北海道渡島(おしま)半島の和人の豪族。江戸時代の松前藩主松前氏の祖。もと下北半島田名部(たなぶ)の蠣崎(現むつ市,旧川内町)におり,15世紀の中ころに渡道したものという。若狭国守護武田氏の一族というが,陸奥国南部氏の一族という説もある。15世紀の道南には館主(たてぬし)といわれる小豪族が割拠しており,それぞれ小河川の河口に館を築いて,アイヌ人と和人との交易を支配していた。蠣崎氏もそのひとりで,上之国(かみのくに)の花沢館主であった。1457年(長禄1)のコシャマインの戦にはじまる道南の戦国争乱の中で,しだいに道南の統一者としての地位を固め,1514年(永正11)居を大館(松前)に移し,93年(文禄2)豊臣秀吉から商船に対する独占的課税権を公認された。99年(慶長4)苗字を松前と改め,ついで1604年徳川家康から秀吉のときとほぼ同様の権利を認められ,北海道唯一の大名として幕末に至った。中世の蠣崎氏については,《新羅之記録》など江戸時代の編纂物以外によるべき史料がなく,不確かなところが多い。
松前藩
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蠣崎氏」の意味・わかりやすい解説

蠣崎氏
かきざきうじ

松前(まつまえ)藩主松前氏の旧称。鎌倉後期以降、奥羽戦乱に敗れた小豪族は、津軽安東(あんどう)氏支配下の蝦夷(えぞ)地に渡り、北海道南岸地方に館(たて)を築いて群雄割拠していた。なかでも上ノ国(かみのくに)花沢館主(はなざわたてぬし)蠣崎季繁(すえしげ)の客将武田信広(のぶひろ)は、1457年(長禄1)のコシャマインの戦いの際、鎮圧に尽力して勢力を強め、蠣崎氏の養子となって他の館主を統一した。そして第2世光広(みつひろ)のとき、1514年(永正11)上ノ国から大館(おおだて)(松前町)に移って安東氏の代官たる地位を得、蝦夷地の現地支配者としての地位を確立した。以後4世季広(すえひろ)まで蠣崎を姓としたが、1593年(文禄2)5世慶広(よしひろ)が豊臣(とよとみ)秀吉より蝦夷地支配を公認する朱印状を得て、安東氏の代官たる地位を脱し、99年(慶長4)松前と改姓、1604年(慶長9)徳川家康より蝦夷地交易の独占権を公認されて松前藩の初代藩主となった。

[榎森 進]

『『新撰北海道史 第2巻 通説1』(1937・北海道庁)』『『松前町史 通説編 第1巻 上』(1984・松前町)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「蠣崎氏」の解説

蠣崎氏
かきざきし

中世,北海道渡島(おしま)半島南端に勢力をもった領主。のちの松前氏。上之国(かみのくに)花沢館主蠣崎季繁(すえしげ)の客将であった武田信広(のぶひろ)が,1457年(長禄元)コシャマインの蜂起を鎮圧し,季繁の家督を相続したことに始まる。信広は若狭国武田氏の出身とされるが,信広の子光広はショヤコウジの蜂起鎮圧を契機に,1514年(永正11)上之国から大館(松前)に根拠地を移し,檜山(ひやま)安藤氏の代官として道南の支配者の地位を確保。光広の孫季広は50年(天文19)ないしは51年,瀬田内のハシタインおよび知内のチコモタインと講和を結び,アイヌ民族との融和を図る。季広の子慶広(よしひろ)の代に豊臣氏・徳川氏に近づいて安藤氏から独立。99年(慶長4)松前氏に改姓。

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世界大百科事典(旧版)内の蠣崎氏の言及

【蝦夷地交易】より

…アイヌも館の所在地や十三湊・秋田などに来て交易した。その後諸豪族を統一した蠣崎(かきざき)氏(のち松前氏と改姓)は安東氏の代官となって事実上蝦夷地交易を独占し,蝦夷地へ出入りする商船に課税し,その一部を安東氏に上納したが,1593年(文禄2)豊臣秀吉,1604年(慶長9)徳川家康よりそれぞれ蝦夷地交易の独占権を公認されてここに松前藩が成立した。 松前藩は,この独占的交易を実現するため,領域を蝦夷地(アイヌ居住地)と和人地(松前地・シャモ地ともいう,和人の居住地。…

【石高制】より

…このように,石高の決定には,大名が豊臣政権に服属する際の条件や,領内の特殊事情などが介在した事実もある。また,対馬(宗氏)や松前(蠣崎氏)のように,朝鮮貿易や蝦夷地交易を公認され,貿易利潤によって財政を成り立たせている大名には,その本領地の石高は無高とし,家格を表示する石高を与えることでランク付けをしている。これは,土地生産力に基礎をおかない貿易利潤と石高制との矛盾を解消し,秀吉の軍役体系に包摂するためにとられた方策である。…

【松前氏】より

…松前藩主。出自については諸説があるが,松前家の記録では,若狭後瀬山城主武田信賢の子信広が1451年(宝徳3)関東足利を経て陸奥田名部の蠣崎(かきざき)に下り,54年(享徳3)蝦夷地に渡って上ノ国花沢館主蠣崎季繁の客となり,コシャマインの戦鎮定を契機に蠣崎氏を継いだことになっている。信広以降4世季広まで蠣崎を姓とし,5世慶広のとき豊臣,徳川氏に従い,松前と改姓して松前藩を形成した。…

※「蠣崎氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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