蘇州(読み)そしゅう(英語表記)Sū zhōu

精選版 日本国語大辞典 「蘇州」の意味・読み・例文・類語

そしゅう ソシウ【蘇州】

中国、江蘇省南東部、太湖の北東岸の都市。江南デルタ中央部の水上交通の要地を占め、清末まで全国的な経済都市として繁栄した。春秋時代の呉の都。隋・唐代に州が置かれた。米、絹織物、刺繍などが名産。風光明媚な水都で寒山寺などの名勝古跡も多い。

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デジタル大辞泉 「蘇州」の意味・読み・例文・類語

そしゅう〔ソシウ〕【蘇州】

中国江蘇省南部の商工業都市。絹織物・刺繍ししゅう・金銀玉石細工が特産。水郷地帯で、付近に寒山寺などの名勝古跡が多い。スーチョウ。人口、行政区134万(2000)。

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改訂新版 世界大百科事典 「蘇州」の意味・わかりやすい解説

蘇州 (そしゅう)
Sū zhōu

中国の江蘇省南東部,上海の西約80kmにある市。省直轄市であり,近郊にある呉県の県政府所在地。人口134万(2000),都市人口69万(1994)。古い歴史をもち文化財,景勝の地に富む江南第一の観光都市。特に滄浪亭獅子林拙政園,留園等の園林は著名である。また虎丘,霊巌山,宝帯橋等の名勝,寒山寺,報恩寺,玄妙観等の寺廟も重要な観光地である。これらの文化遺跡やすぐれた工芸品の産出地として,日本においても古くからよく知られている。

長江(揚子江)デルタの後背湿地にあり,西は太湖に面し,他の三方は多くの湖沼をもつ低湿地で,大小の水路が縦横に走る水郷景観を呈する。豊富な水利と温暖な気候は,稲作に好適で,新石器時代から平野中に点在する丘陵や微高地によって,集落の形成がかなりすすめられていた。北方の中原文化の影響も早く伝わり,太湖周辺の小台地から発見される湖熟文化には,明らかに殷文化の影響がみられる。殷の末年,周の太王の子,泰伯・仲雍がこの地に亡命して〈句呉〉の国をたてたという伝承も,この関係の一端を示すものであろう。呉国の中心は当初梅里(現,無錫(むしやく))にあったが,やがてよりデルタの先端近くに移され,春秋時代,呉王闔閭(こうりよ)のとき,伍子胥(ごししよ)の助力を得て,国土の整備をすすめ,周囲47里といわれる大きな都城を建設した。これが今の蘇州の基礎となる。ここは長江デルタ全体を統轄し,かつ北方の斉,西方の楚,南方の越に対して等しく水陸両道が通じており,勢力を拡張するのに最もよい位置であった。闔閭より次の夫差にかけて,呉は越を臣服させ,北上して斉を攻撃するなど,江南の覇者として活躍するのも,この位置を占めたためであろう。

 秦の統一がなると,江南は会稽郡の地とされ,郡治は呉に置かれた。秦末に反乱を起こした項梁,項羽は,この中原から離れた辺地でまず烽火をあげたが,以後も北方の中央に対して基本的に反抗する性格を有しつづける。前漢には会稽郡の西部は丹陽郡となり,さらに後漢になると浙江以東を会稽郡,以西を呉郡として,呉は長江下流域の太湖周辺,江南で最も肥沃な土地の中心としての地位を確立した。三国・南北朝時代には,江南全域では,やや内陸にあって地勢的にすぐれた要衝を占める建業(建康,のちの南京)が中心となり,呉はそれに及ばなかったが,隋代,これまでにも部分的に開かれてきた運河が,全面的に修築整備され,南北を結んで全通すると,江南の中心は運河に沿う蘇州,あるいは潤州(鎮江)や揚州へ移った。呉郡の名も,姑蘇山にちなんで蘇州に改められた。唐代には疆域の変遷がしばしばあったが,江南東道,浙江西道節度使などの治所として,蘇州は最も安定した中心都市であり続けた。城郭内も含め,呉県の東部を析して長洲県が置かれたのも,都市内の充実がすすんだことを示している。

 五代には呉越国の北部における中心として,中呉府,のちに中呉軍節度が置かれ,比較的安定した状況の下で水利の整備,城郭の拡張がおこなわれた。園林の造築もこのころから始まる。宋代には平江軍と改められ,北宋末,府に昇格した。このあとすぐに金の侵入を受けるが,南宋には再興し,国都杭州と並んで繁栄する。蘇州はすでに政治的中心力を持たなくても十分に繁栄できる基礎的経済力を最も堅固に身につけた都市に成長していた。元末,張士誠がよるに至ったのも,この基盤があったからである。朱元璋が明を建てて江南を平定すると,平江府は蘇州府に改められ南京に直隷した。しかし宋・元代に杭州に対したと同じく,明・清代にも南京をしのいで,経済文化上の中心性を保持したが,太平天国の乱に至り,江南の中心としての地位を上海に譲った。

蘇州周辺における水利整備は,春秋時代にはじまるとされるが,大規模な開発は南北朝時代にはじまり,江南運河が開かれ全国の穀倉地帯として江南が位置づけられた隋・唐以降は,水利開発は国家の重要事業となった。唐代には常熟塘,元和塘などの灌漑・通運を兼ねた水路が開かれたことが知られ,これより五代にかけて現在みられるような水郷景観が,ほぼ形成されたと考えられる。また水稲ばかりでなく,北方の桑園が破壊されたことで,江南でも桑の栽培がすすめられ養蚕が急速に広まった。生産される絹糸絹布は,国内ばかりか運河によって来航する外国の商人のあがなうところとなり,蘇州の経済力は飛躍的に高まった。これとともに唐代には韋応物,白居易,劉禹錫,皮日休等が相次いで行政官として駐在し,文化水準を高めた。のちの滄浪亭をはじめとする園林,寺院の建築もすすみ,都市文化が形成されはじめたといえよう。〈上に天堂(天国)有り,下に蘇杭(蘇州と杭州)有り〉といわれはじめたのもこのころである。

 宋代における都市の充実ぶりは,南宋の紹定2年(1229)刻とされる《平江図》によってうかがえる。城内には縦横に水路と道路が走り,そこにかかる橋梁は350余を数え,市民の居住する坊巷の間には,多くの官署や寺廟が建ち並ぶほか,商店街,手工業者の同業者町が形成され,飲食,技芸など消費生活も発達していた。元初にここを訪れたマルコ・ポーロも,同様の記述を残している。このころからワタの栽培もはじまり,全国的に需要が拡大してゆくなかで,新しい有力な産業となった。さらに明代にはこれら繊維製品の染色加工業がおこり,これらの産業に従事する都市人口は,周辺の農村,他郷からの流入で増加する一方であった。同時にこれらの商品を取り扱う商人も,安徽・浙江等から集まり,商業・金融業が著しく発達し,巨万の富を蓄える豪商が軒をつらねた。明の万暦年間(1573-1619)ごろはその頂点といわれ,蘇州一府の租税納入額は,浙江一省に匹敵し,全国の1/10を占めた。

 このような経済力は,また蘇州文化ともいうべき著しい特色をもった文化を発達させた。元末の張士誠は,異民族支配に抗して漢民族の伝統文化を保持するため,天下の文化人を蘇州に招いていた。それは朱元璋の恐れるところとなり,明初には強い弾圧を受けたが,北方の官僚主義に対する反感と軽侮を基調とする気風は維持された。〈呉中四才子〉と呼ばれる祝允明・唐寅・文徴明徐禎卿を中心とし,文学や絵画はもちろん,生活態度を通じて,このような気風は一つの近世的都市文化をつくりあげた。これが政治的にも意味をもつ一つの運動となったのが,明末の復社である。しかしこれはそれに先行する東林党とは性格を異にし,あくまでも文化運動として始められたものであった。ここに蘇州文化の斬新さと,中国社会における限界があろう。

明末・清初の混乱期を終えると,再び商工業は盛んになったが,乾隆(1736-95)中期より絹布の輸出が停滞し,綿布も広東に新しく生産地が生まれ,蘇州の経済は深刻な打撃を受けた。また1823年(道光3)の大洪水は,以後の農業不振をもたらし,都市全体が不景気の不安に沈んだ。これは文化の退廃をもたらし,さらに太平天国の乱が江南に及び,南京が陥落すると,蘇州の資本は大部分が新興の都市上海へ保護を求めて移動してしまった。1896年(光緒22),日清戦争後の下関条約で日本は蘇州を開市せしめ,租界を設けたが,往年の活気の失われた都市では特に繁栄もみられなかった。過去の文化遺産をみるだけで,常に新しいものを吸収し,生みだしてゆく文化力は,上海に移って再生した。解放後,蘇州でも工業化がはかられているが,軽工業部門と伝統的手工芸を主とする体質に大きな変化はなく,大運河を経済の動脈として再利用しようという計画もすすんでいない。工業中心は上海に移ったのはもちろん,西隣の無錫が近代になって発達し,蘇州はいずれの面でもたち遅れたことは否めない。しかし伝統的文化を保持した美しい水の都として貴重な存在である。同じ水の都,イタリアのベネチアとは友好都市になっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蘇州」の意味・わかりやすい解説

蘇州
そしゅう / スーチョウ

中国、江蘇(こうそ)省南部の地級市。略称は蘇。旧称は呉。太湖(たいこ)の北東にあって、豊かな揚子江(ようすこう)(長江(ちょうこう))デルタの要地を占める。虎丘(こきゅう)、呉中(ごちゅう)、相城(そうじょう)、呉江(ごこう)、姑蘇(こそ)の5市轄区を管轄し、常熟(じょうじゅく)、太倉(たいそう)など4県級市の管轄代行を行う(2017年時点)。人口667万0124、市轄区人口341万2564(2015)。年平均気温は約16℃、年降水量は約1000ミリメートル。金沢市、池田市と姉妹都市提携を結んでいる。

[林 和生・編集部 2018年1月19日]

歴史

水上交通にとくに恵まれているため、揚子江流域ではもっとも早く開発された。春秋時代は呉の都が置かれ、秦(しん)の統一後、呉県となり、秦から前漢を通じて、会稽(かいけい)郡の治所が置かれ、後漢(ごかん)の中期に呉郡の治所に改められた。当時すでに江南における経済や文化の中心であったが、三国時代以後、漢民族の南方への移住が盛んになってから急速に発展した。隋(ずい)代に中原(ちゅうげん)と江南を結ぶ大運河が開通すると、沿線最大の物資の集散地としていっそう繁栄し、呉郡の名も蘇州と改められた。かくて、江南最大の人口を誇る都市となり、唐の最盛期の742年には、呉県をはじめ管下の7県の人口をあわせて約63万を数えた。五代の呉越(ごえつ)国の独立は蘇州の経済力を基礎にして可能となったといわれる。

 南宋(なんそう)から元にかけては南宋の首都杭州(こうしゅう)とともに「上有天堂、下有蘇杭」と称され、都市文化が発達し地上の極楽に比せられた。当時、呉淞江(ごしょうこう)によって外海に通じ、海外渡航の根拠地となり、外国貿易も行われた。明(みん)代後半から清(しん)代にかけてが全盛期で、絹織物、刺しゅう、綿紡織業などが栄え、商業金融も発達し、全国の租税納入額の1割を占めることもあった。

 しかし清末には洪水に襲われたり、また太平天国軍に占領され、10年間にわたり、その指導者の一人である李秀成(りしゅうせい)の本拠となったりしたため、繁栄の中心は上海(シャンハイ)に移った。蘇州市が設置されたのは1949年である。

[林 和生 2018年1月19日]

産業・交通

市内同様に管轄代行を行う県級市は縦横に水路網が発達した水郷地帯で、米、ワタ、小麦、ナタネ(アブラナ)を産し、養蚕業が盛んである。また淡水養殖業も大規模に営まれ「魚米の里」とよばれる。市東北部にある陽澄湖(ようちょうこ)は、シャンハイガニの産地・養殖地として有名。

 中華人民共和国成立後に繊維製品、化学、機械、製紙、電子機器、鉄鋼などの工業が発達し、蘇州工業園区、蘇州ハイテク産業開発区(高新区)などの優遇区域が設置されている。京滬(けいこ)線によって首都の北京(ペキン)や経済・金融の中心地である上海、省政府所在地の南京(ナンキン)と結ばれている。伝統的手工業として刺しゅう、檀香扇(たんこうせん)(白檀(びゃくだん)など香木を使った扇子)、宋錦などが世界的に知られる。

[林 和生・編集部 2018年1月19日]

文化・観光

代表的な古い水都で、風光明媚(めいび)な観光遊覧都市として名高い。市の内外には、明・清代の建造物が現存する水郷地帯の周荘鎮(しゅうしょうちん)をはじめ、滄浪亭(そうろうてい)、獅子林(ししりん)、拙政園(せっせいえん)、留園(りゅうえん)などの名園や、楓橋(ふうきょう)、虎丘、張継(ちょうけい)の漢詩「楓橋夜泊」で有名な寒山寺、報恩寺など、名勝・旧跡が多い。

[林 和生 2018年1月19日]

世界遺産の登録

滄浪亭、獅子林、拙政園、留園など、市内に点在する9庭園は1997年および2000年に、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「蘇州古典園林」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。また、蘇州運河は2014年、「中国大運河」の構成資産として世界文化遺産に登録されている。

[編集部 2018年1月19日]

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百科事典マイペディア 「蘇州」の意味・わかりやすい解説

蘇州【そしゅう】

中国,江蘇省南部の都市。太湖の東岸に位置し,大運河と蘇州河の交会点で,京滬(けいこ)鉄路(北京〜上海)に沿い交通の要衝をなす。春秋時代はの都だった。米,生糸,ナタネなどの大集散地で,絹織物,刺繍(ししゅう)などの伝統工業が盛ん。付近は寒山寺などの名勝史跡に富む。伝統文化を保持した水の都として名高く,イタリアのベネチアとは友好都市。蘇州の古典園林は1997年世界文化遺産に登録された。329万人(2014)。
→関連項目経済特区江蘇[省]蘇州古典園林

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「蘇州」の解説

蘇州(そしゅう)
Suzhou/Soochow

中国江蘇省の都市。古くから江南における水陸交通の要地となり,経済の中心地として繁栄した。蘇州の呼称は隋唐に始まる。春秋時代にはの都をなし,秦漢では呉県が置かれた。宋元時代には平江と呼んだが,明以後再び蘇州という。その発展は南北朝以後著しく,宋元時代には杭州と並ぶ江南の2大都市となった。明清時代に最も繁栄したが,清末から上海に繁栄を奪われた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「蘇州」の解説

蘇州
そしゅう
Sūzhōu

中国,江蘇 (こうそ) 省南部,長江河口近くにある商業都市
春秋時代に呉の国都となって以来,長江デルタ地帯の中心を占め,隋代に大運河が開通したのちは経済都市として繁栄。絹織物の産地として知られたが,明の半ばごろから綿織物や綿布の加工業も盛んとなり,明・清代には中国最大の商工業都市として発展。学問・芸術も栄えたが,太平天国の乱で兵火を受けて破壊され,経済的地位を上海に譲った。

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世界大百科事典(旧版)内の蘇州の言及

【江蘇[省]】より

…春秋時代になってようやく開発が進み,北東部は魯,北西部は宋,南半部はほとんどが呉,南西部が楚の勢力範囲であった。戦国時代の初期には呉がもっとも強大で今の蘇州に都をおき,淮河から南,太湖周辺一帯を占めていたが,前5世紀の後半に浙江から起こった越(都は紹興)に滅ぼされた。しかし前4世紀の中ごろ越は楚に滅ぼされ,もとの呉・越の領土はすべて楚の手中に帰した。…

【平江城坊図】より

…中国,南宋時代の蘇州(当時蘇州は平江府といわれた)市街地図を刻した石碑。1229年(紹定2)の製作と考えられ,蘇州市の旧孔子廟内に現存する。…

※「蘇州」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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