新撰 芸能人物事典 明治~平成 「藤山 寛美」の解説
藤山 寛美
フジヤマ カンビ
- 職業
- 俳優
- 肩書
- 松竹新喜劇座長
- 本名
- 稲垣 完治
- 別名
- 別名=稲垣 治,筆名=無想路 愚文
- 生年月日
- 昭和4年 6月15日
- 出生地
- 大阪府 大阪市
- 学歴
- 住吉中中退
- 経歴
- 父は新派俳優で二枚目といわれた藤山秋美。4歳で父と死別し、父と親交があった花柳章太郎の勧めで俳優の世界に入る。寛美の芸名も花柳の命名によるもの。昭和9年花柳の紹介で関西新派の都築文男に入門し、道頓堀・角座「人斬供養」で初舞台。小学校時代には子役として歌舞伎や新国劇などに出演し、小学校卒業後は住吉中学に進むが、演劇活動が多忙を極めたため中退した。16年子役が不足していたため渋谷天外、曽我廼家十吾らの松竹家庭劇の入り、喜劇に転向。20年師・都築の率いる関東軍の慰問隊に参加して満州に渡り、奉天で敗戦を迎えたのち、ソ連軍に抑留され、解放後も様々な職に就きながら新京、ハルビンなど満州各地を転々とし、悲惨な状況下を生き延びた。22年引き揚げ後は天外の劇団すいーとほーむ(のち新家庭に改称)を経て、23年十吾、天外、浪花千栄子らとともに松竹新喜劇を旗揚げ。26年天外作の「桂春団治」で酒屋の丁稚を演じて阿呆役に開眼し、24年天外と共演したテレビ喜劇「親バカ子バカ」の阿呆息子役が大ウケ、松竹新喜劇のプリンスとして一躍有名になった。活躍は舞台、テレビに限らず、36年「寛美の三等社員」、37年「寛美の我こそは一等社員」、40年「色ごと師春団治」などの映画で主演。その私生活は破天荒で、高級クラブなどで豪遊を重ね、38年ついに大阪地裁から破産宣告を言い渡される。そのため41年退団するが、天外が脳溢血で倒れたため同年復帰。以後、天外の後継者として松竹新喜劇を率い、観客のリクエストで演目を決める“リクエスト狂言”や「銭まつり」「阿呆まつり」などといった様々な企画を連発して同劇団を興行史上希にみる人気劇団に仕立てあげた。また、自身も休まず出演し続け、56年10月には180ヶ月連続無休公演の記録を打ち立てた。61年には無休20年を達成。平成元年紫綬褒章を受章。その後も肝臓の病気を抱えながら休まず舞台に立ったが、2年肝硬変のため死去。同年の大阪・中座の「アットンの詩」が最後の舞台となった。天才的な“間”の良さで阿呆を演じる天才といわれ、主な舞台に「大阪ぎらい」「花ざくろ」「親バカ子バカ」「愚兄賢弟」「銀の簪」など。著書に「あほかいな」「凡談愚言」「みち草わき道しぐれ道」などがある。
- 受賞
- 芸術選奨文部大臣賞〔昭和48年〕 紫綬褒章〔平成1年〕 名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和44年〕,大阪府民劇場賞〔昭和47年〕,大阪芸術賞〔昭和50年〕,松尾芸能賞(大賞)〔昭和60年〕
- 没年月日
- 平成2年 5月21日 (1990年)
- 家族
- 三女=藤山 直美(女優),父=藤山 秋美(新派俳優),異母兄=藤間 良輔(日本舞踊家)
- 伝記
- 上方喜劇―鶴家団十郎から藤山寛美までさらば松竹新喜劇―天外・寛美と過ごした日々植木等と藤山寛美―喜劇人とその時代アホやけど愛しいおひと―涙と笑い 夫・藤山寛美との凄絶修羅四十年 三田 純市 著藤井 薫 著小林 信彦 著稲垣 峰子 著(発行元 白水社情報センター出版局新潮社主婦と生活社 ’93’93’92’90発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報