藤堂氏(読み)とうどううじ

百科事典マイペディア 「藤堂氏」の意味・わかりやすい解説

藤堂氏【とうどううじ】

江戸時代大名。現在の滋賀県甲良(こうら)町にあった近江国犬上(いぬかみ)郡藤堂名字の地とする。戦国期,高虎(たかとら)は浅井織田豊臣らの各氏に仕え,1585年1万石,ついで紀伊国粉河(こかわ)2万石,伊予国宇和島(うわじま)7万石と昇進関ヶ原の戦では東軍に属し,徳川家康から伊予国今治(いまばり)20万石を与えられた。1608年伊賀国・伊勢国で22万石を与えられ,本城を安濃津(あのつ)城ともいわれた伊勢国の津城(現・三重県津市),有事の城を伊賀国上野(うえの)城(三重県伊賀市上野)とした。大坂の陣後の1617年に加増されて32万4000石となる。津藩藩祖高虎のあとを1630年に子の高次(たかつぐ)が継ぎ,代々世襲して明治維新に至る。→藤堂高虎
→関連項目上野[市]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤堂氏」の意味・わかりやすい解説

藤堂氏
とうどううじ

江戸時代の大名家。外様(とざま)、大広間詰。近江国(おうみのくに)犬上郡藤堂村(滋賀県甲良(こうら)町)の出。六角(ろっかく)氏、京極氏に仕えた。藩祖高虎(たかとら)のとき、浅井・織田(おだ)・豊臣(とよとみ)・徳川氏に仕え頭角を現す。紀伊国粉川(こかわ)、伊予国宇和島・国府(こくふ)・今治(いまばり)を経て1608年(慶長13)伊賀1国と伊勢(いせ)2郡を与えられ安濃津(あのつ)(三重県津市)に入封する。1617年(元和3)に山城(やましろ)・大和(やまと)2国の加増地を受け32万3900石余の大名となる(津藩)。のち3代高久(たかひさ)は1669年(寛文9)弟高通(たかみち)に5万石を分封し、久居(ひさい)(三重県津市)に支藩を創設。以後、本・支藩とも明治維新まで存続する。本藩では、居城とした安濃津のほかに伊賀上野城下町を建設し、城代を設置した。

[保坂 智]


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改訂新版 世界大百科事典 「藤堂氏」の意味・わかりやすい解説

藤堂氏 (とうどううじ)

江戸時代の大名家。近江国犬上郡から出て8世景盛が藤堂氏を称する。高虎のとき浅井,織田,豊臣,徳川氏に仕え,1585年(天正13)1万石,ついで紀州粉河2万石,伊予宇和島7万石と昇進し,関ヶ原の戦の戦功で伊予今治20万石の大名になった。1608年(慶長13)伊賀,伊勢に22万石を与えられ,はじめ伊賀上野城,10月伊勢の津城(安濃津城)に入った。大坂の陣ののち山城,大和にも増封されて32万3000石余の外様大名となり,高虎を藩祖として以後12代まで領地を失わずに明治維新を迎える。国主。維新後,伯爵。3代高久の69年(寛文9)高通に5万石を分封,久居(ひさい)藩を設けた。維新後,子爵。また計2万石を領する一門の名張家(藩士並)が置かれた。藩主としての藤堂氏は持続するが,高虎の直系は18世紀前半で絶える。藤堂氏は伊勢津城を平常の統治の拠点としたが,伊賀上野にも城代を置いて有事に備えた。
津藩
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤堂氏」の意味・わかりやすい解説

藤堂氏
とうどううじ

江戸時代の大名。天武天皇の皇子舎人 (とねり) 親王の出で,平安時代,近江国愛智郡の大領家となり,その一族が犬上郡藤堂村に住して藤堂氏を称したという。高虎 (→藤堂高虎 ) のとき,初め浅井氏,さらに織田氏,豊臣氏に仕え,文禄4 (1595) 年伊予国に8万石を与えられた。のち徳川家康に仕え,関ヶ原の戦いののち,12万石を受け,宇和島城主を経て,慶長 13 (1608) 年伊勢安濃津および伊賀上野の城主となり,元和3 (17) 年 32万 4000石を受けた。明治になって伯爵。なお,寛文9 (69) 年高久のとき,次男高通に5万石,3男高堅に 3000石を分封。元禄 10 (97) 年高堅は高通の嗣子となり5万 3000石を領有し,久居藤堂藩として明治にいたって子爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤堂氏」の解説

藤堂氏
とうどうし

江戸時代,伊勢の津(安濃津)藩主
近江愛智 (えち) 郡に住む郡司の家系中,犬上郡藤堂村に住した者が藤堂と称したらしい。初め六角・京極氏に仕えたが,1608年高虎のとき,伊賀・伊勢に入封。'17年,32万石に加増され,明治時代に至り伯爵をうけた。

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世界大百科事典(旧版)内の藤堂氏の言及

【大名】より

…宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。 これに准ずる大名,領地高の多い大名は,伊達氏(陸奥仙台62万石余),細川氏(肥後熊本54万石),鍋島氏(肥前佐賀35万石余),藤堂氏(伊勢安濃津32万石余),松平氏(越前福井32万石),有馬氏(筑後久留米21万石),佐竹氏(出羽秋田20万石余),松平氏(出雲松江18万石余),柳沢氏(大和郡山15万石余),上杉氏(出羽米沢15万石)の10家で,合計20家の国主大名が存在した。 ただし1ヵ国を領有する酒井氏(若狭12万石余で小浜に住する),松浦氏(壱岐等6万石余,肥前平戸),稲垣氏(志摩等3万石,鳥羽)の3家は,領地高が多くないので国主としない。…

※「藤堂氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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