藤原麻呂(読み)ふじわらのまろ

精選版 日本国語大辞典 「藤原麻呂」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐まろ【藤原麻呂】

奈良前期の公卿。不比等の四男。京家の祖。持節大使として陸奥の蝦夷地経営にあたったが、流行疫病で死んだ。詩をよくし、「懐風藻」に五言詩五首を収録。持統一〇~天平九年(六九六‐七三七

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デジタル大辞泉 「藤原麻呂」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐まろ〔ふぢはら‐〕【藤原麻呂】

[695~737]奈良前期の公卿。不比等ふひとの四男。京家の祖。持節大使として陸奥むつ蝦夷えぞ地経営にあたったが、流行の疫病で死んだ。詩をよくし、「懐風藻」に五言詩5首を収録。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原麻呂」の意味・わかりやすい解説

藤原麻呂 (ふじわらのまろ)
生没年:695?-737(持統9?-天平9)

奈良前期の官人。藤原氏京家の祖。不比等の四男で,兄宇合(うまかい)より1歳年少となる。浜成,百能らの父。729年(天平1)6月,彼が大夫を務めていた左京職から,河内国古市郡の人が捕ったという背に〈天王貴平知百年〉の瑞字のある亀が献上された。光明立后を実現させるための意味をもつものとし,天平と改元され立后が発表された。731年8月兄の宇合や葛城王(橘諸兄)その他とともに諸司の挙によって参議となった。737年2~4月持節大使として,鎮守将軍大野東人とともに多賀柵(のちの多賀城)より雄勝城に至る新道をひらいたが,同年7月流行の天然痘で急死した。時に参議兵部卿従三位であった。《懐風藻》に五言絶句,《万葉集》に大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)との贈答歌みえ,その左注によると彼女を妻としたことがあったらしい。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原麻呂」の意味・わかりやすい解説

藤原麻呂
ふじわらのまろ
(695―737)

奈良時代の政治家。不比等(ふひと)の四男で京家の祖。717年(養老1)、美濃介(みののすけ)であったとき元正(げんしょう)天皇の行幸があり、天皇が美泉(養老(ようろう)の滝)に浴し、このため養老と改元したが、そのときの功により従(じゅ)五位下に叙せられた。729年(天平1)に左京大夫麻呂らの献上した亀が大瑞(たいずい)の現れとされ、亀の背に「天王貴平知百年」の文字があったのに基づいて天平(てんびょう)と改元された。このことは光明子(こうみょうし)を皇后とするのに役だった。のち参議、兵部卿(ひょうぶきょう)となり、737年持節大使として出羽(でわ)国雄勝村(秋田県雄勝地方)を征するため多賀柵(たがのさく)にとどまり多賀柵より雄勝村に至る道を開いたが、同年他の兄3人と同じく天然痘のため病死した。

福井俊彦

『野村忠夫著『律令政治の諸様相』(1968・塙書房)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原麻呂」の解説

藤原麻呂 ふじわらの-まろ

695-737 奈良時代の公卿(くぎょう)。
持統天皇9年生まれ。藤原不比等(ふひと)の4男。母は五百重娘(いおえのいらつめ)。京家の祖。養老5年(721)左京大夫となる(京家の称はこれに由来)。従三位にすすみ,天平(てんぴょう)3年参議兼兵部卿。9年持節大使として陸奥(むつ)-出羽(でわ)連絡路をひらいた。「懐風藻」に詩5首,「万葉集」に大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)との贈答歌がある。天平9年7月13日疫病で死去。43歳。
【格言など】僕(われ)は聖代の狂生ぞ。直(ただ)に風月を以ちて情(こころ)と為し,魚鳥を翫(もてあそびもの)と為す(「懐風藻」)

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朝日日本歴史人物事典 「藤原麻呂」の解説

藤原麻呂

没年:天平9.7.13(737.8.13)
生年:持統9(695)
奈良時代の官人。不比等の第4子,母は五百重娘といわれる。名は万里とも書く。京家の祖。養老5(722)年6月左右京大夫に任官,京家の名はこれに由来する。天平3(731)年8月兵部卿のまま参議に任じられ,同11月山陰道鎮撫使を兼ねた。同9年1月遣陸奥持節大使として東北地方の経営に当たり,帰京後ほどなく病没。大伴坂上郎女を妻としたときがある。「僕は聖代の狂生ぞ,直に風月を以ちて情となし,魚鳥を翫と為す」とは自称の文。好んで琴酒に沈湎したとの評がある。なお邸宅は平城京左京二条二坊五坪(奈良市法華寺町)にあったと推定され,調査が行われた。

(井上勲)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原麻呂」の解説

藤原麻呂
ふじわらのまろ

695~737.7.13

名は万里とも。8世紀前半の公卿。不比等(ふひと)の四男。母は五百重娘(いおえのいらつめ)。京家の祖。717年(養老元)従五位下。721年左京大夫。729年(天平元)従三位。731年参議。時に兵部卿。天平8年8月2日付の平城京2条大路跡出土木簡の記載から,邸宅は左京2条2坊5坪にあったと推定される。737年天然痘にかかり没した。

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百科事典マイペディア 「藤原麻呂」の意味・わかりやすい解説

藤原麻呂【ふじわらのまろ】

奈良前期の高官。不比等(ふひと)の子。母は不比等の異母妹五百重娘(いおえのいらつめ)。京家(きょうけ)の祖。左京大夫(さきょうだいぶ)であったため京家という。のち参議,陸奥(むつ)按察使(あぜち)を経て兵部卿のとき天然痘で没。酒と音楽を愛した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原麻呂」の意味・わかりやすい解説

藤原麻呂
ふじわらのまろ

[生]持統9(695).奈良
[没]天平9(737).7.13. 奈良
奈良時代初期の廷臣。不比等の子。母は不比等の異母妹で天武天皇夫人であった五百重娘 (いおえのいらつめ) 。藤原4家の一つ京家の始祖。左右京大夫,参議を歴任。持節大使として,蝦夷討伐に功があったが,流行の疫病で死去。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原麻呂」の解説

藤原麻呂
ふじわらのまろ

695〜737
奈良時代の公卿。京家の祖
京家の名は,麻呂が京職大夫をつとめたことにちなむ。不比等の4男。母は不比等の異母妹五百重娘 (いおえのいらつめ) 。鎮守府将軍大野東人 (あずまひと) と陸奥の蝦夷 (えみし) 征討に尽力したが,737年流行の疫病でほかの3兄弟とともに死亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原麻呂の言及

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

【藤原不比等】より

…奈良時代初期の重臣。史(ふひと)とも表記。鎌足の次男で,母は車持君国子(くるまもちのきみくにこ)の娘の与志古(よしこ)。幼時は山科(京都市山科区)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で育ったので,史と名づけられたという。父の死後3年目に起こった壬申の乱では,田辺一族から近江方の将軍となった者も出たが,不比等自身はまだ少年であったし,乱後の天武朝には,姉妹の氷上(ひかみ)や五百重(いおえ)が天武夫人(ぶにん)としてそれぞれ但馬(たじま)皇女や新田部皇子を生んだためもあって,順調に官途を歩みだしたらしく,持統朝で判事(はんじ)に任命されたときには,数え年31歳で直広肆(じきこうし)(従五位下相当)に昇っていた。…

※「藤原麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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