藤原道兼(読み)フジワラノミチカネ

デジタル大辞泉 「藤原道兼」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐みちかね〔ふぢはら‐〕【藤原道兼】

[961~995]平安中期の公卿兼家三男。兄道隆死後関白就任したがわずか7日で病没し、世に七日関白と称された。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原道兼」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐みちかね【藤原道兼】

平安中期の公卿。兼家の三男。花山天皇を欺いて出家させ、外戚一条天皇即位させた。父の死後、兄道隆と摂政を争って敗れ、道隆の死後関白に就任したが、わずか七日後に死んだため、七日関白とも呼ばれ、また粟田関白ともいう。応和元~長徳元年(九六一‐九九五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原道兼」の意味・わかりやすい解説

藤原道兼
ふじわらのみちかね
(961―995)

平安中期の公卿(くぎょう)。藤原兼家(かねいえ)の三男、母は藤原中正(なかまさ)の女(むすめ)時姫。花山(かざん)天皇に出家の兆しがみえると、父兼家とともに天皇に出家を促し、一条(いちじょう)天皇(母は兼家の女詮子(せんし))が即位。道兼は山科元慶(やましながんぎょう)寺で自分もともに出家すると称してついて行き、天皇の出家直前に帰ってきてしまう話は『大鏡』に詳しい。天皇が出家すると、兼家は摂政(せっしょう)に、自分は蔵人頭(くろうどのとう)となり、7人を超えて権中納言従三位(ごんちゅうなごんじゅさんみ)に進んだ。991年(正暦2)内大臣、994年右大臣に任ぜられた。父兼家の死後、兄道隆(みちたか)の摂政の後を受け、道隆亡きあと、995年(長徳1)関白となったが、就任後、7日で薨(こう)じた。七日関白、粟田(あわた)関白、二条関白とよばれている。

山中 裕]

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原道兼」の意味・わかりやすい解説

藤原道兼 (ふじわらのみちかね)
生没年:961-995(応和1-長徳1)

平安中期の公卿。摂政兼家の四男。母は摂津守藤原中正の女時姫。花山天皇に蔵人として仕えたが,986年(寛和2)父兼家の指図により,偽って天皇を内裏より東山花山寺に連れ出して出家させた。兼家の摂政就任後,連年官位を進めて右大臣に昇り,995年兄道隆の没後待望の関白の座についたが,就任の奏慶後,わずか7日で没したので,〈七日関白〉と称された。世に粟田関白,町尻殿と号した。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原道兼」の解説

藤原道兼

没年:長徳1.5.8(995.6.8)
生年:応和1(961)
平安中期の公卿。粟田関白,二条関白と称される。摂関兼家と藤原中正の娘時姫の次男。外孫(一条天皇)の即位をすすめる父の策略一役買う。寛和2(986)年,花山天皇の道心につけこんで自分も出家するとみせかけ,天皇を夜陰に乗じて内裏から密かに連れ出し,元慶寺(京都市山科区。花山寺ともいう)で剃髪に追い込んだ。正暦5(994)年右大臣。翌年に病死した兄道隆に代わって関白,氏長者となったが,11日後には病死し,世間から七日関白といわれた。この年は疫病が流行し,同じ日に左大臣源重信も死去,年内に6人の公卿が死んだ。平安京の二条町尻に持った邸宅は町尻殿と呼ばれ,京外の東にも粟田山荘を構えた。「容貌は悪く,剛腹で片意地なところがあり,偏執的な性格」とは『大鏡』や『栄花物語』の道兼評。

(朧谷寿)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原道兼」の意味・わかりやすい解説

藤原道兼
ふじわらのみちかね

[生]応和1(961).京都
[没]長徳1(995).5.8. 京都
平安時代中期の廷臣。別称,粟田殿,二条殿,町尻殿。兼家の子。母は藤原中正の娘時姫。寛和2 (986) 年父の意向を体して花山天皇に退位,出家を迫り,一条天皇を即位させた。同年参議,さらに権中納言に進んだ。永祚1 (989) 年権大納言,正暦2 (991) 年内大臣,同5年右大臣。一条天皇即位の功によって摂政,関白の地位を得ようとしたが,父が死ぬと兄道隆がその地位を占めた。長徳1 (995) 年兄の死後関白となったが,11日後に没した。そのため「のちの関白」「七日関白」と称された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原道兼」の解説

藤原道兼 ふじわらの-みちかね

961-995 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
応和元年生まれ。藤原兼家の3男。母は藤原中正の娘時姫。策謀によって花山(かざん)天皇を出家にさそいこみ,父の摂政就任後は急速に昇進。右大臣をへて,兄道隆の死去で長徳元年関白となるが,同年5月8日死去。35歳。号は粟田,二条,また就任間もなく死去したため七日関白とも称された。贈正一位太政大臣。

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