精選版 日本国語大辞典 「藤原緒嗣」の意味・読み・例文・類語
ふじわら‐の‐おつぐ【藤原緒嗣】
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(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安初期の官人。藤原百川(ももかわ)の子。父百川が桓武天皇擁立の中心人物であったことからその信任があつく,内舎人(うどねり)として出身し,中衛少将,右衛士督など主として武官を歴任,802年(延暦21)従四位下で参議となった。ときに29歳で当時では史上最年少の参議である。805年12月に殿上で69歳の参議菅野真道(すがののまみち)と天下の徳政を論じ,蝦夷への軍事行動と平安京の造営の中止を主張し,桓武天皇がこれを実行したことは有名である。のち山陽道,畿内,東山道などの観察使として多くの奏状を提出し,民衆の実情をふまえた政論を展開した。これが嵯峨天皇などの信頼をうけ821年(弘仁12)大納言,翌年従二位皇太子傅となり,淳和天皇即位の大嘗会に冗費の節減を求めた。825年(天長2)右大臣となり翌年の冬嗣の没後は首班をつとめ832年には左大臣,翌年正二位となった。その性格も関連していようが,晩年は病弱であったらしく,冬嗣のような華やかさはない。《新撰姓氏録》《日本後紀》などの編纂にも参画した。
執筆者:佐藤 宗諄
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平安前期の官僚。百川(ももかわ)の長子で、母は伊勢大津(いせのおおつ)の女(むすめ)。父が桓武(かんむ)天皇擁立の立役者であったため、天皇の信任が厚く、17歳で正(しょう)五位上内舎人(うどねり)となり、のち侍従や諸衛府(えふ)の官人を経て、802年(延暦21)29歳のとき、天皇の特別な計らいで前例のない若い参議となった。805年には天下の徳政を論じて軍事(いわゆる蝦夷(えぞ)征討)と造作(平安宮造営)の中止を進言した。続く平城(へいぜい)朝では観察使として山陽道、畿内(きない)、東山道に赴き、民衆の実情を踏まえた意見を奏上した。嵯峨(さが)朝に入ると、蔵人頭(くろうどのとう)を経て10年遅れて参議となった藤原冬嗣(ふゆつぐ)(1歳年少)が天皇の信任を得、緒嗣は政治的に目だった行動が少なくなる。しかし821年(弘仁12)に大納言(だいなごん)、825年(天長2)には右大臣となり、冬嗣の死(826)以後は太政(だいじょう)官の首座(一上)となり、832年には左大臣となった。晩年は病弱で、政治的にみるべきものは少ないが、編集した『日本後紀(こうき)』の人物評は異例で、緒嗣の影響とされている。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の編集にも参画した。
[佐藤宗諄]
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…792年(延暦11)から833年(天長10)まで,桓武,平城,嵯峨,淳和の4天皇,43年間のことを記す。仁明天皇の840年(承和7),藤原緒嗣(おつぐ)らの手で完成。応仁・文明の戦乱で散逸し,10巻のみ現存し,他の30巻については,《日本紀略》《類聚国史》等により部分的にしか復元しえない。…
※「藤原緒嗣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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