藤原為時(読み)ふじわらのためとき

改訂新版 世界大百科事典 「藤原為時」の意味・わかりやすい解説

藤原為時 (ふじわらのためとき)
生没年:949ころ-1029ころ(天暦3ころ-長元2ころ)

平安中期の漢詩人。刑部大輔雅正の男。堤中納言兼輔の孫。母は右大臣定方の娘。菅原文時に師事し,文章生に挙げられ,式部丞,蔵人などを歴任した。996年(長徳2)淡路守に任ぜられた際,〈苦学寒夜,紅涙霑襟(てんきん)を霑(うる)ほす,除目の後朝,蒼天に眼在り〉の句を奏上して,一条天皇を感心させ,越前守にふりかえられた話は《今昔物語集》巻二十四などにも記されて有名。右馬頭藤原為信の娘と結婚し,紫式部らをもうけた。越前国府へ赴任するにあたり娘式部を同伴した。1011年(寛弘8)越後守に任ぜられたが,同行した息子惟規(のぶのり)の死に遭ったりし,任半ばにして辞任,16年(長和5)三井寺にて出家した。摂政藤原頼通の大饗の屛風詩を作ったのは18年(寛仁2)のことである。《本朝麗藻》の詩人群の一人で,大江匡衡は源為憲,源孝道らとともに〈凡位を越える者(詩人)〉と称した(《江談》343則)。《本朝麗藻》13首,《類聚句題抄》5首,《和漢兼作集》7首(うち現存するもの5首),《新撰朗詠集》1首,《江談》1首などの漢詩文があるほか,《後拾遺集》3首,《新古今集》1首の和歌が見られる。《江談》320,343,358則でも言及されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原為時」の意味・わかりやすい解説

藤原為時
ふじわらのためとき

生没年未詳。平安中期の文人。中納言(ちゅうなごん)兼輔(かねすけ)の孫、雅正(まさただ)の子で、母は右大臣定方(さだかた)の女(むすめ)。紫式部の父。東宮時代以来近侍した花山(かざん)天皇の出家後不遇をかこち、詩を付した申文(もうしぶみ)を奉って越前守(えちぜんのかみ)に任じられた話(996、『今昔物語』ほか)は有名で、任地ではおりから漂着した宋(そう)人と詩の贈答をした。具平(ともひら)親王(村上帝皇子)邸に出入りする儒者詩人の一人で、和歌もよくした。藤原道長の専権後もしばしば詩歌の宴に列し、三井寺で出家(1016年4月)ののちも詠作を続けたが、18年1月以降没したらしい。その詩は『本朝麗藻(れいそう)』(13首)、『類聚(るいじゅ)句題抄』(五首)ほかに収録され、『後拾遺(ごしゅうい)集』以下の勅撰(ちょくせん)集に四首の和歌をとられている。

伊藤 博]

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朝日日本歴史人物事典 「藤原為時」の解説

藤原為時

生年:生没年不詳
平安時代の漢詩人。父は藤原雅正。母は藤原定方の娘。紫式部の父。和歌は『後拾遺集』以下4首しか残っていないが,漢詩は『本朝麗藻』や『類聚句題抄』に25首現存している。官歴は播磨権少掾,式部丞 などを歴任するが,花山天皇退位とともに失職。その後,越前守や越後守になる。宮廷詩人としての地位は確保していたようで,藤原道長や頼通らの貴顕の催行する詩会などに献詠し,本領を発揮している。『紫式部日記』によれば,道長邸での新年の宴会のあと,一条天皇の御前の遊びにも招かれていたが出席せず,道長から「ひがみたり」と評されるほど非社交的な側面があった。この性格をはじめとして,紫式部に与えた影響は大きい。

(松田豊子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原為時」の解説

藤原為時 ふじわらの-ためとき

?-? 平安時代中期の官吏,漢詩人。
藤原雅正(まさただ)の3男。母は藤原定方の娘。紫式部の父。菅原文時にまなぶ。官途にめぐまれず,一条天皇に詩でうったえて越前守(えちぜんのかみ)に任じられた。のち越後(えちごの)守,極位は正五位下。長和5年(1016)出家。詩は「本朝麗藻」(13首)などにおさめられ,和歌は勅撰集に4首がはいっている。

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