藤原敦光(読み)ふじわらのあつみつ

朝日日本歴史人物事典 「藤原敦光」の解説

藤原敦光

没年:天養1.10.28(1144.11.24)
生年:康平6(1063)
平安後期の文人貴族。文章博士藤原明衡と安房守平実重の娘の子。幼時に父を亡くし,兄敦基の養子となる。家学の文章道を修め,対策(文章得業生の試験)及第後,大内記,文章博士,大学頭,式部大輔と儒官としての任官を経る。堀河・鳥羽・崇徳の3代の天皇の侍読を勤め,天永の記録荘園券契所の寄人ともなる。しかし参議への昇進はついにかなわず,終生失意の因となる。当代随一の文章家で,その手になる詔勅・任官申文・勘文・漢詩の類は膨大な数にのぼる。その内のいくつかは『本朝文粋』に所収されており,保延1(1135)年の疫病流行時に提出した徳政勘文は特に著名。著書に『続本朝秀句』『本朝帝紀』があるが,現在は散逸。浄土信仰に厚く,『三教指帰』の注釈書『三教指帰勘注抄』を著す。

(上杉和彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原敦光」の解説

藤原敦光 ふじわらの-あつみつ

1063-1144 平安時代後期の官吏,漢詩人。
康平6年生まれ。藤原明衡(あきひら)の子。母は平実重の娘。大学頭(かみ),式部大輔。正四位下にいたる。堀河天皇以下3代の詔勅類を起草,官途は不遇だったが当代一の文章家として知られた。「本朝続文粋(もんずい)」「本朝無題詩」などに多数の文,詩がおさめられている。天養元年10月28日死去。82歳。
格言など】安くして危きを忘れざるは,古(いにしえ)の炯誡(けいかい)なり(「勘申」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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