藤原房前(読み)ふじわらのふささき

精選版 日本国語大辞典 「藤原房前」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ふささき【藤原房前】

奈良時代の公卿。北家の祖。不比等の子。武智麻呂の弟。参議となり、さらに内臣(うちつおみ)をつとめたが、神亀元年(七二四聖武天皇即位後は参議にとどまった。天武一〇~天平九年(六八一‐七三七

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デジタル大辞泉 「藤原房前」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ふささき〔ふぢはら‐〕【藤原房前】

[681~737]奈良前期の公卿。不比等ふひとの二男。北家の祖。元明上皇の遺詔により内臣うちつおみとなる。聖武天皇の即位後は参議にとどまった。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原房前」の意味・わかりやすい解説

藤原房前 (ふじわらのふささき)
生没年:681-737(天武10-天平9)

奈良前期の官人。藤原不比等の第2子で,藤原北家の祖。兄武智麻呂より1歳年少である。永手,真楯(八束ともいう),清河,魚名,御楯(千尋ともいう),楓麻呂らの父。また名前未詳の女は聖武天皇の夫人となっており,袁比良(おひら)(宇比良古)は藤原仲麻呂の妻となっている。さらに《尊卑分脈》《公卿補任》では鳥養(第1子)の父ともある。717年(養老1)10月,武智麻呂に先んじて朝政に参議した。これはおそらく父不比等の抜擢によるものであろう。武智麻呂は721年1月,参議を経ずに中納言に任じられ,729年(天平1)3月大納言,734年正月右大臣と昇進し,藤原氏の嫡長子として対外的に藤原氏を代表していたと考えられる。これとは対照的に,房前は一貫して参議でありつづけた。しかし元明太上天皇の信頼篤く,721年その死に臨んで〈内臣〉とされ,内外を計会し,勅に准じて施行し,帝業を輔翼し,国家を寧んずべきことを遺言されたことが示すように,皇室との個人的関係が深かった。また,《万葉集》によると729年10月の時点で,房前をさして〈中衛高明閤下〉とあり,《公卿補任》にも730年10月に〈中衛大将〉に任じられたとあることからみて,房前は728年(神亀5)に授刀衛(じゆとうえ)を改組して設置された中衛府の初代長官であったと考えられる。したがって,彼は藤原氏内部の最高権力者であったとみてよいと思われる。737年4月,天然痘流行により没した。時に参議民部卿正三位。同年10月正一位左大臣を,760年(天平宝字4)8月藤原仲麻呂によって太政大臣が追贈された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原房前」の意味・わかりやすい解説

藤原房前
ふじわらのふささき
(681―737)

奈良時代の政治家。不比等(ふひと)の二男で北家(ほっけ)の祖。705年(慶雲2)に従(じゅ)五位下に叙せられてから昇進を重ね、717年(養老1)に参議となり、兄武智麻呂(むちまろ)、弟宇合(うまかい)、麻呂らとともに政界に重きをなした。721年には元明(げんめい)太上天皇はとくに右大臣長屋王と房前に遺言し、元明なきあとの不測の事態に備え、さらに房前を内臣(ないしん)に任じて元正(げんしょう)天皇を補佐させた。また728年(神亀5)設置の中衛府(ちゅうえふ)は藤原氏との関係が強く長屋王の変でも活躍するが、その最初の中衛大将は房前であったらしく、そのころきわめて重要な官人であった。天平(てんぴょう)9年4月17日、天然痘によって死去。3人の兄弟も同病で7、8月に死去した。

福井俊彦

『野村忠夫著『律令政治の諸様相』(1968・塙書房)』『笹山晴生著『中衛府の研究』(『論集日本歴史2 律令国家』所収・1972・有精堂出版)』『中川収著『奈良朝政争史』(1979・教育社)』

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朝日日本歴史人物事典 「藤原房前」の解説

藤原房前

没年:天平9.4.17(737.5.21)
生年:天武10(681)
奈良時代の公卿。不比等の第2子。母は蘇我連子の娘娼子。藤原北家の祖。妻のひとりに継母,県犬養橘三千代の娘牟漏女王がおり,その子真楯はのちの摂関家の祖となった。大宝3(703)年,巡察使のひとりとして東海道に派遣されたのが史料上の初見(正六位下)。養老1(717)年には父不比等(右大臣)と共に参議に列せられている。父の没後も元明太上天皇の遺詔を右大臣長屋王とふたりで受け,また元正天皇からも帝業を輔翼するべく内臣という特別職に任じられるなど,両天皇の房前に対する信任はことさらに厚いものがあった。神亀1(724)年,聖武天皇の即位に当たり正三位に叙せられ,同5年には中衛大将(中衛府の初代長官)に任じられることがあったが,その後は兄武智麻呂の方が政界の地位は高まった。房前の皇親たちとの距離の近さが,藤原氏内部においてこのような処遇の違いになってあらわれたものと考えられる。天平9(737)年4月流行の天然痘により4人の兄弟の中ではいちばん早く死没した。同年10月正一位左大臣を贈られ,食封2000戸を20年を限ってその家に賜った。

(狩野久)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原房前」の意味・わかりやすい解説

藤原房前
ふじわらのふささき

[生]天武9(681)
[没]天平9(737).4.17.
奈良時代初期の廷臣。不比等の子。母は蘇我武羅自古の娘。藤原4家の一つ北家の始祖。慶雲2 (705) 年従五位下,養老1 (717) 年従四位下,参議。同5年従三位,同年 10月元明太上天皇の病気に際し,内臣 (うちつおみ) として帝業を補佐せよとの詔旨を受け,神亀1 (724) 年正三位となった。同3年授刀長官,近江,若狭按察使を兼ね,天平1 (729) 年中務卿,翌2年中衛大将,同4年東海,東山2道節度使となった。同9年4月,痘瘡にかかり没した。時に民部卿。同年 10月正一位,左大臣を追贈,食封 2000戸を賜わり,天平宝字4 (760) 年太政大臣を贈られた。

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百科事典マイペディア 「藤原房前」の意味・わかりやすい解説

藤原房前【ふじわらのふささき】

奈良前期の高官。不比等(ふひと)の子。北家(ほっけ)の祖。元明(げんめい)天皇に信任され,祖父鎌足(かまたり)と同じく内臣(ないしん)に就任。また参議,中務卿(なかつかさきょう),東海・東山両道節度使(せつどし),民部卿などの要職を歴任したが,流行の疫病で死んだ。
→関連項目藤原魚名

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原房前」の解説

藤原房前 ふじわらの-ふささき

681-737 奈良時代の公卿(くぎょう)。
天武天皇10年生まれ。藤原不比等(ふひと)の次男。母は蘇我連子(そがの-むらじこ)の娘,娼子。北家の祖。霊亀(れいき)3年(717)参議となり,元明上皇の没時には長屋王とともに後事を託される。正三位にすすみ,民部卿,初代の中衛(ちゅうえの)大将などをかねた。天平(てんぴょう)9年4月17日流行病で死去。57歳。正一位左大臣,ついで太政大臣を追贈された。「懐風藻」「万葉集」に詩歌がみえる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原房前」の解説

藤原房前
ふじわらのふささき

681~737.4.17

奈良前期の公卿。不比等(ふひと)の次男。母は蘇我連子の女娼子。北家の祖。705年(慶雲2)従五位下に叙され,しばしば巡察使に任じて諸国の政情を視察。715年(霊亀元)従四位下に昇り,717年(養老元)朝政への参議を許される。元明太上天皇の危篤に際し内臣(うちつおみ)として元正天皇の輔弼にあたり,また授刀督・中衛大将として武力を掌握した。737年(天平9)天然痘により没し,正一位左大臣,さらに太政大臣を追贈される。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原房前」の解説

藤原房前
ふじわらのふささき

681〜737
奈良時代の公卿。北家の祖
北家の名は,房前の邸宅が兄武智麻呂の邸宅の北方にあったことにちなむ。不比等の2男。721年元明上皇の遺詔で後事を託され,内臣 (うちつおみ) となった。聖武天皇の政治を助け民部卿となった。737年疫病によりほかの3兄弟とともに死亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原房前の言及

【大織冠】より

…その死骸を引き上げると玉は乳房を切り裂いて隠してあった。玉は興福寺の本尊の眉間に納められ,子は大臣藤原房前となった。これは海女が身を捨てて海中の玉を取る話だが,《日本書紀》允恭紀にあるように古い神話的原型に由来する。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

【藤原不比等】より

…奈良時代初期の重臣。史(ふひと)とも表記。鎌足の次男で,母は車持君国子(くるまもちのきみくにこ)の娘の与志古(よしこ)。幼時は山科(京都市山科区)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で育ったので,史と名づけられたという。父の死後3年目に起こった壬申の乱では,田辺一族から近江方の将軍となった者も出たが,不比等自身はまだ少年であったし,乱後の天武朝には,姉妹の氷上(ひかみ)や五百重(いおえ)が天武夫人(ぶにん)としてそれぞれ但馬(たじま)皇女や新田部皇子を生んだためもあって,順調に官途を歩みだしたらしく,持統朝で判事(はんじ)に任命されたときには,数え年31歳で直広肆(じきこうし)(従五位下相当)に昇っていた。…

※「藤原房前」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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