藤原師輔(読み)フジワラノモロスケ

デジタル大辞泉 「藤原師輔」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐もろすけ〔ふぢはら‐〕【藤原師輔】

[908~960]平安中期の公卿。忠平の子。通称、九条殿。娘安子村上天皇皇后となり、子の兼通兼家、孫の道長と続く摂関家の祖となった。有職故実九条流の祖。著「九条年中行事」、日記「九暦きゅうれき」。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原師輔」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐もろすけ【藤原師輔】

平安中期の公卿。右大臣。忠平の第二子。母は右大臣能有の娘。父忠平の関白職は兄実頼がついだが、娘安子が村上天皇の皇后となって冷泉円融両天皇を生んだことから勢力を得、子兼通・兼家、孫道長と続く摂関家の祖となる。朝儀に精通して有職故実の九条流の祖。通称九条殿。著に「九条年中行事」「九条殿遺誡」、歌集に「九条右丞相集」、日記に「九暦」がある。延喜八~天徳四年(九〇八‐九六〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原師輔」の意味・わかりやすい解説

藤原師輔
ふじわらのもろすけ
(908―960)

平安中期の公卿(くぎょう)。忠平(ただひら)の子、実頼(さねより)の弟。923年(延長1)従(じゅ)五位下(げ)。藤原邦経(くにつね)の女(むすめ)盛子と結婚、935年(承平5)28歳で参議、938年(天慶1)従三位(じゅさんみ)、権中納言(ごんちゅうなごん)、942年大納言。947年(天暦1)右大臣、従二位に進んだ。忠平の関白のあとは兄実頼が継いだ。日記『九暦(きゅうれき)』は日次(ひなみ)の記の『九暦抄』のほか『九条殿記』と称する儀式作法に関する記事のみを部類分けにした年中行事の別記があり、さらに父忠平の教えをそのまま書き記した『貞信公教命』がある。これらは、いずれも師輔が父忠平から受け継いだ儀式作法を非常にだいじにしたことを示すもので、兄実頼に対してわが家こそ父の作法を伝えているとの誇りをもっていたことが感ぜられる。師輔の儀式作法を集大成したものが『九条年中行事』であり、『九暦』の別記は、その準備段階のものであった。これらは『九条右丞(うじょう)相遺誡』とともに有職故実(ゆうそくこじつ)の九条流の祖となるものであった。天徳(てんとく)4年5月4日右大臣で薨(こう)ず。通称九条殿はその邸地による。

 師輔は摂関にはならなかったが、人柄のよさから人望があり、また女(むすめ)安子(あんし)が村上(むらかみ)天皇の中宮となり、冷泉(れいぜい)・円融(えんゆう)天皇の母となり外戚(がいせき)の基を開き、子兼通(かねみち)・兼家、孫の道長と摂関を相承する基礎を築いたといえよう。

山中 裕]

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朝日日本歴史人物事典 「藤原師輔」の解説

藤原師輔

没年:天徳4.5.4(960.5.31)
生年:延喜8(908)
平安中期の公卿。藤原忠平と源能有の娘昭子の子。九条殿と称される。延長1(923)年従五位下に叙せられたあと官位累進し,承和1(931)年蔵人頭,天慶1(938)年従三位。権中納言を経て大納言,天暦1(947)年,右大臣となった。時の一の人左大臣藤原実頼(師輔の兄)よりも実力を有したことから,「一苦しき二」と評されたという。村上天皇の女御(のち皇后)となった娘安子が皇子憲平親王(のちの冷泉天皇)を生んだことで,第1皇子広平親王(外祖父は藤原元方)を退け,憲平を皇太子に立てている。この安子の皇子出産の祈祷を延暦寺横川の良源(のち18代天台座主)に頼んで功徳があったことから,摂関家と延暦寺の関係が密接となり,天暦5(951)年,横川に法華三昧堂を建て,次いで子の兼家が恵信堂をつくっている。また子の尋禅を良源の弟子とする一方,所領を寄進するなど,比叡山の貴族化が始まったのも師輔の時代からである。晩年の『九条殿御遺誡』は,公事の要枢は翌朝日記に書き留めることなど,貴族の実行すべき事柄を書き上げたもので,貴族社会を知るうえで貴重。『九暦』はその日記。なお九条殿と呼ばれたのは左京の九条坊門に本宅があったことによる。

(村井康彦)

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原師輔」の意味・わかりやすい解説

藤原師輔 (ふじわらのもろすけ)
生没年:908-960(延喜8-天徳4)

平安前期の廷臣。関白忠平の次男。母は源能有女。923年(延長1)元服後,累進して947年(天暦1)右大臣となった。兄実頼は関白となり,女を入内させたものの子にめぐまれなかったのに比し,師輔は女の安子が村上天皇皇后となり冷泉・円融天皇を生んだので,外祖父としての地位を確立した。子の伊尹・兼通・兼家は摂関となり,兼家以後その門流の九条流が摂関の地位を独占した。父忠平の故実を伝え,兄実頼の小野宮流とはその面でも競争関係にあった。《九条年中行事》《九条殿遺誡》や日記《九暦》を残している。960年病により出家し同年没した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原師輔」の意味・わかりやすい解説

藤原師輔
ふじわらのもろすけ

[生]延喜8(908).京都
[没]天徳4(960).5.4. 京都
平安時代中期の廷臣。別称,九条殿,坊城右丞相。忠平の子。母は右大臣源能有の娘昭子。延長1 (923) 年従五位下,承平5 (935) 年参議。娘安子が村上天皇の皇后であったので宮中に勢力を得,天暦1 (947) 年右大臣,同9年正二位。天徳4 (960) 年出家。安子が冷泉,円融両天皇を生んだことにより,その子伊尹 (これただ) ,兼通,兼家はそれぞれ摂政,関白の地位を得て権勢をふるった。朝儀に精通し,有職故実の九条流の祖。日記『九暦』,著書『九条右丞相遺誡』『九条年中行事』『貞信公教命』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原師輔」の解説

藤原師輔 ふじわらの-もろすけ

908-960 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
延喜(えんぎ)8年生まれ。藤原忠平の次男。母は源能有(よしあり)の娘。承平(じょうへい)5年(935)参議。天暦(てんりゃく)元年(947)右大臣,9年正二位。娘安子が冷泉(れいぜい)天皇,円融天皇を生み,兄実頼(さねより)をしのいで外戚(がいせき)の地位を確立。九条流故実の祖で,日記に「九暦」,著作に「九条年中行事」「九条殿遺誡(ゆいかい)」,家集に「師輔集」がある。天徳4年5月4日死去。53歳。号は九条,坊城。
【格言など】三度反覆して人と言を交えよ(「九条殿遺誡」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原師輔」の解説

藤原師輔
ふじわらのもろすけ

908~960.5.4

平安中期の公卿。九条殿・坊城大臣とも。関白忠平の次男。母は源能有(よしあり)の女。931年(承平元)蔵人頭(くろうどのとう),935年参議,942年(天慶5)大納言。947年(天暦元)右大臣となる。955年正二位。女の安子(あんし)は村上天皇の中宮となり,冷泉(れいぜい)・円融両天皇を生んだ。子の伊尹(これただ)・兼通・兼家は摂関につき,以後師輔の家系が摂関の地位を占めた。有職(ゆうそく)故実の九条流の祖。著書「九条年中行事」「九条殿遺誡(ゆいかい)」,日記「九暦(きゅうれき)」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原師輔」の解説

藤原師輔
ふじわらのもろすけ

908〜960
平安中期の公卿
右大臣。通称九条右大臣。関白忠平の2男。娘安子が村上天皇の皇后となり,冷泉 (れいぜい) ・円融の2天皇を生み,兄実頼をこえて摂関家の主流となった。著書に『九条年中行事』,日記『九暦 (きゆうれき) 』など。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原師輔の言及

【陰陽道】より

…平安朝に入り,律令制の衰退と藤原氏の政権掌握に伴い,陰陽道は権力者に利用され陰陽師の禁忌卜占が政治に影響するところが多く,貴族の御用的性格を帯びた宮廷陰陽道へと変わっていった。藤原良房の進出した仁明・文徳朝(833‐858)ころよりこの傾向は著しく,藤原師輔は《九条殿遺誡》《九条年中行事》を著して多くの陰陽道的禁忌や作法を明示し,宇多天皇も《周易》に詳しかった。かくて滋岳川人(しげおかのかわひと),弓削是雄(ゆげのこれお)ら名人が輩出し,川人は多数の著作をのこし日本における陰陽道の基礎をつくった。…

【九暦】より

…右大臣藤原師輔の日記。もとは930年(延長8)ころより960年(天徳4)に没するまで約30年間にわたったものと思われるが,今はその一部分が(1)零細な断簡,(2)本記を抄出した《九暦》,(3)記事を事項別に分類した部類記である《九条殿記》,(4)師輔の父忠平の教命(きようみよう)を筆録した《九暦記》,(5)諸書に引用された逸文,として伝わり,これらを総称して《九暦》という。…

【九条殿遺誡】より

…右大臣藤原師輔が公卿としての心得を記した家訓。10世紀中ごろの成立。…

【九条年中行事】より

…平安中期の年中行事および一般行事についてその次第・作法などを記した書。著者は藤原師輔。兄の実頼とともに父忠平の教命を受け,実頼の小野宮流に対し,九条流の故実を伝えるために作成された。…

【日記】より

…すでに大宝令,養老令において中務省の内記がつかさどると規定されている〈御所記録〉が,中国において天子の日常の起居言行を史官が記録した起居注と同類のものとすれば,内廷の日記の一種とみなすことができるであろう。9世紀中ごろの藤原師輔の《九条殿遺誡》には,毎日起床後まず昨日の事を暦記に注して忽忘に備えよとおしえ,当時すでに宮廷貴族の間にも,日記記載の習慣が定着していたことを物語っている。その公家日記は,鎌倉時代までは巻子仕立ての具注暦に書きつけたものが多く,暦面の2~4行の空白に記載したので,暦記ともいわれた。…

【源高明】より

…恒例,臨時の儀式,政務を記した著《西宮記(さいきゆうき)》は,以後の貴族政治における重要な典拠の一つとされ,現在も王朝政治・文化研究の貴重な史料である。彼は九条流の故実の祖である右大臣藤原師輔に信頼され,師輔は三女を彼の室とし,その女が没すると五女愛宮をその室とした。師輔が早く没したので彼は強力な後援者を失ったのである。…

※「藤原師輔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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