藤原家隆(読み)フジワラノイエタカ

デジタル大辞泉 「藤原家隆」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐いえたか〔ふぢはら‐いへたか〕【藤原家隆】

[1158~1237]平安末期・鎌倉前期の歌人。名は「かりゅう」とも。寂蓮の養子。藤原俊成に学び、「新古今和歌集」撰者の一人となり、藤原定家と並び称された。家集に「壬二みに」がある。

ふじわら‐の‐かりゅう〔ふぢはら‐〕【藤原家隆】

ふじわらのいえたか

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精選版 日本国語大辞典 「藤原家隆」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐いえたか【藤原家隆】

鎌倉初期の歌人。光隆の子。従二位宮内卿まで進み、壬生二品(みぶのにほん)とも呼ばれた。藤原俊成に師事し、「新古今和歌集」の撰者の一人となり、藤原定家と並び称される。作風は素直、清澄。多作家で、家集に「壬二集(みにしゅう)」がある。保元三~嘉禎三年(一一五八‐一二三七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原家隆」の意味・わかりやすい解説

藤原家隆
ふじわらのいえたか
(1158―1237)

鎌倉前期の歌人。猫間(ねこま)中納言(ちゅうなごん)とよばれた権(ごん)中納言光隆の子。母は太皇太后宮亮(たいこうたいごうぐうのすけ)藤原実兼(さねかね)の女(むすめ)。侍従(じじゅう)、上総介(かずさのすけ)、宮内卿(くないきょう)などを歴任し、従(じゅ)二位に至り、壬生二品(みぶにほん)、坊城二品などとよばれた。藤原俊成(しゅんぜい)に歌を学び、俊成の子定家(ていか)とは生涯を通じて歌友であり、双璧(そうへき)とされる好敵手でもあった。歌風は定家に比して概して平明である。後鳥羽(ごとば)院の信任が厚く、1201年(建仁1)の和歌所設置に際しては定家らとともに寄人(よりゅうど)とされ、さらに『新古今和歌集』撰者(せんじゃ)5人の1人に加えられた。順徳(じゅんとく)天皇の内裏(だいり)では、定家とともに宮廷和歌の指導にあたった。また、娘承明門院土御門(つちみかど)院)小宰相(こざいしょう)の関係からか、土御門院にも親しい感情を寄せていた。このような関係から1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱によって後鳥羽、土御門、順徳の三院が遠所に遷(せん)された衝撃は大きかったが、乱後もむしろこの悲しみを一つの原動力として盛んに作歌活動を続け、隠岐(おき)(島根県)の後鳥羽院とは音信を絶やさなかった。しかし官途のうえでは不遇で、最晩年にようやく従二位に至った。1236年(嘉禎2)病により出家、法名を仏性と号し、翌年4月9日、難波(なにわ)(大阪)の天王寺で日想観を行いながら没した。年80。家集『壬二(みに)集』(玉吟集)、自歌合(じかあわせ)『家隆卿(きょう)百番自歌合』などがあり、『千載(せんざい)和歌集』以下代々の勅撰集に入集(にっしゅう)しているが、歌論としてまとまったものはない。子の侍従隆祐(たかすけ)、承明門院小宰相も歌人として知られる。

久保田淳

 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける

『久保田淳編著『藤原家隆集とその研究』(1968・三弥井書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「藤原家隆」の意味・わかりやすい解説

藤原家隆 (ふじわらのいえたか)
生没年:1158-1237(保元3-嘉禎3)

平安末~鎌倉初期の歌人。藤原北家良門流。正二位権中納言光隆の次男で,従二位宮内卿に昇る。20歳ころ藤原俊成の門下となり,またこのころ寂蓮の婿となったことが《古今著聞集》に見える。天性の詩人的素質に恵まれ,1186年(文治2)西行の勧めで定家らとともに〈二見浦百首〉を詠んで以来,御子左家(みこひだりけ)少壮歌人として頭角を現し,1193年(建久4)《六百番歌合》などでの実作者としての充実した活動を経て,藤原定家と並び称されるにいたった。《新古今集》撰者の一人で,《千載集》以下の勅撰集入集281首。〈霞立つ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空〉(《新古今集》)など優艶な構成歌以外,〈風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける〉(《新勅撰集》《百人一首》)など清澄高雅な作風に特色を示す。定家とは対照的に温厚な性格で,後鳥羽院の隠岐遷幸後も交信を絶やさなかった。家集《壬二(みに)集》。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原家隆」の解説

藤原家隆

没年:嘉禎3.4.9(1237.5.5)
生年:保元3(1158)
平安・鎌倉時代の歌人。権中納言藤原光隆と太皇太后宮亮藤原実兼の娘の子。『新古今和歌集』選者のひとりで,新古今時代の代表的な歌人。藤原俊成の指導のもとに,藤原定家らと『二見浦百首』(1186年,西行勧進)などを詠み,また『六百番歌合』(1193年ごろ)に参加するなど,新風歌人のひとりとして活躍。『正治二年初度百首』(1200)の作者に加えられて後鳥羽院歌壇の有力歌人となり,建仁1(1201)年,新たに設置された和歌所の寄人となり,次いで『新古今和歌集』(1205)の選者のひとりに選ばれた。新古今以後も,定家と共に,院歌壇および順徳天皇歌壇で指導的役割を果たした。承久の乱(1221)以降も,隠岐の後鳥羽上皇と誠実な交流を続けたという。家集に,藤原基家編の『壬二集』(『玉吟集』とも)があり,自歌合に『家隆卿百番自歌合』が現存。後世,多作家として知られる。彼自身のまとまった歌論書はないが,『土御門院御百首』付載の消息文や『京極中納言相語』などにみられる発言に,その歌観を窺わせる。歌風においては,和歌本来の格調を旨とし,素直な抒情性の流露する,温雅で含蓄のある表現を志向していたといいうる。<参考文献>谷山茂『新古今時代の歌合と歌壇』(『谷山茂著作集』4巻)

(渡部泰明)

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百科事典マイペディア 「藤原家隆」の意味・わかりやすい解説

藤原家隆【ふじわらのいえたか】

平安末〜鎌倉初期の歌人。正二位権中納言光隆の子。従二位宮内卿。藤原俊成に学び寂蓮の婿となった。《新古今和歌集》の撰者の一人。藤原定家らとともに,新古今時代の代表歌人。巧緻(こうち)な表現と素直な抒情を併せもつ歌風。家集に《壬二(みに)集》がある。
→関連項目宇太野熊野懐紙六百番歌合

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原家隆」の意味・わかりやすい解説

藤原家隆
ふじわらのいえたか

[生]保元3(1158)
[没]嘉禎3(1237).4.9. 大坂
鎌倉時代前期の公卿,歌人。「かりゅう」とも読む。幼名,雅隆。法名,仏性。権中納言光隆の子。宮内卿を経て,非参議従二位。和歌を藤原俊成に学んだ。寂蓮の婿だったという伝えもある。藤原定家に比して晩成型の歌人だが,『六百番歌合』や『正治百首』 (1200) などに参加し,やがて定家と並び称されるようになった。『新古今和歌集』撰者の一人で,43首入集。 79歳のとき出家。歌風は平明で,幽寂な傾向がある。『新勅撰和歌集』には最多の 35首入集。家集『壬二 (みに) 集』は六家集の一つ。息子の隆祐,娘の承明門院 (土御門院) 小宰相も歌人。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原家隆」の解説

藤原家隆
ふじわらのいえたか

1158~1237.4.9

名は「かりゅう」とも。壬生二品(みぶのにほん)とも。鎌倉前・中期の歌人。父は光隆。母は藤原実兼の女。従二位宮内卿。和歌を藤原俊成に学ぶ。1186年(文治2)西行勧進の「二見浦百首」を詠み,以後「六百番歌合」などに参加,藤原定家らとともに歌壇に新風を吹きこんだ。「正治初度百首」に参加し,後鳥羽院歌壇の有力歌人として活躍。「新古今集」の撰者の1人。つづく順徳天皇歌壇では指導者的立場で活動した。承久の乱後は隠岐国の後鳥羽上皇と連絡を絶やさず,「遠島御歌合」には自詠を送っている。晩年まで旺盛な作歌活動をつづけた。家集「壬二集(みにしゅう)」は藤原基家編の他撰家集。「千載集」以下の勅撰集に入集。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原家隆」の解説

藤原家隆 ふじわらの-いえたか

1158-1237 鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
保元(ほうげん)3年生まれ。藤原光隆の子。宮内卿となり,従二位にいたる。和歌は藤原俊成に師事。後鳥羽(ごとば)上皇の信任あつく,「新古今和歌集」撰者にくわえられて,藤原定家と双璧(そうへき)と称された。嘉禎(かてい)3年4月9日死去。80歳。初名は雅隆。通称は壬生二品。家集に「壬二(みに)集」。
【格言など】風そよぐ楢(なら)の小川の夕暮は禊(みそぎ)ぞ夏のしるしなりける(「小倉百人一首」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原家隆」の解説

藤原家隆
ふじわらのいえたか

1158〜1237
鎌倉前期の歌人。『新古今和歌集』撰者の一人
名は「かりゅう」とも読む。藤原俊成に和歌を学ぶ。藤原定家と並称され,歌風は温雅で技巧にすぐれている。得意は幽玄な叙景歌。壬生二品 (みぶにほん) と称し,家集に『壬二 (みに) 集』がある。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原家隆の言及

【壬二集】より

藤原家隆の他撰歌集。〈六家集〉の一つ。…

※「藤原家隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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