藤原宮跡(読み)ふじわらきゆうあと

日本歴史地名大系 「藤原宮跡」の解説

藤原宮跡
ふじわらきゆうあと

持統・文武・元明三天皇の皇居。大和三山に囲まれた飛鳥川右岸にある。現在、藤原宮跡と推定されているのは、現高殿たかどの町・縄手なわて町・醍醐だいご町・別所べつしよ町にまたがる一〇〇万平方メートルの地域であり、その中心部分の五〇ヘクタールが国の特別史跡として指定され保存されている。藤原宮の名の初見は「日本書紀」持統天皇四年一〇月条の太政大臣高市皇子が公卿百寮を従えて藤原宮地を視察した記事。次いで同年一二月には持統天皇自ら藤原に行幸、宮地をみている。翌五年一〇月には新益しんやく京の地鎮祭、一二月には諸王・諸臣への宅地の班給が行われ、六年正月天皇が新益京の道路を視察、五月には藤原宮の鎮祭、伊勢・大倭おおやまと・住吉・紀伊の四大神への奉幣があり、さらに七年二月造京司に工事のため掘出された屍の収容が命ぜられている。「万葉集」巻一には「藤原宮の役民の作れる歌」がある。同八年一二月、藤原京への遷都が行われた。

「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月条に再び新宮が営まれたような記事があり、その頃東西の市が立てられ(帝王編年記)、「続日本紀」和銅元年(七〇八)八月条に左右京職の設置があることなどから、宮の改築や京の拡張が行われたのではないかという説がある。宮殿の構造は「日本書紀」「続日本紀」などによれば、内裏・内殿・大安殿・東安殿・西殿・新宮正殿や大極殿・正門・朝堂・東楼・西楼など、また海犬養門の名がみえるところから、いわゆる宮城一二門の存在も推察できる。

和銅三年の平城遷都後は、左大臣石上朝臣麻呂が藤原宮の留守官となったが、「扶桑略記」はこの宮は翌四年には大官だいかん大寺とともに焼失したと伝えている。宮域内には大宮おおみや宮所みやどこ沖殿おきどの城殿きどの中殿なかどのくらまちなどの小字があるが、年代のわかる最も古いものとしては、文永三年(一二六六)の高殿庄名田本証文目録(東大寺文書)にみえる梅黒めぐろがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「藤原宮跡」の解説

ふじわらきゅうせき【藤原宮跡】


奈良県橿原市高殿町・醍醐(だいご)町・縄手町ほかにある宮城跡。藤原京は、7世紀末、耳成(みみなし)山、天香久(あまのかぐ)山、畝傍(うねび)山の大和三山に囲まれた平坦な地に建設された都市で、はじめて中国的な条坊制が取り入れられた。694年(持統天皇8)に完成、以来文武天皇を経て710年(和銅3)に平城京に遷都するまで、3代16年間の都となった。藤原宮は、律令制国家成立時に建設されたわが国最初の本格的宮都の中枢部であり、古代史研究上きわめて重要とされ、1946年(昭和21)に国の史跡に、1952年(昭和27)には特別史跡に指定され、その後の調査によって逐次追加指定された。藤原宮は天皇の住まいである内裏(だいり)、国家的儀式の場である大極殿や朝堂院(ちょうどういん)、および中央諸官衙(かんが)を含む、京の中枢部に当たる。東西8坊、南北12条の京の北半中央に位置し、北を二条大路、南を六条大路、東と西を東西の二坊大路で囲んだ東西4坊、南北4条16坊分を占めていた。発掘調査は1933年(昭和8)以降たびたび行われ、指定地全体の整備も進められた。出土品は近接する奈良文化財研究所都城発掘調査部庁舎資料室で公開され、明日香村の飛鳥資料館にも展示されている。近畿日本鉄道橿原線畝傍御陵前駅から徒歩約25分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典 日本の地域遺産 「藤原宮跡」の解説

藤原宮跡

(奈良県橿原市醍醐町・高殿町)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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