日本大百科全書(ニッポニカ) 「蕪村」の意味・わかりやすい解説
蕪村
ぶそん
(1716―1783)
近世中期の俳人、画家。本姓谷口氏。与謝(よさ/よざ)氏を称するのは丹後(たんご)から帰洛(きらく)以後のこと。俳号は初め宰町(さいちょう)・宰鳥、蕪村号の初出は寛保(かんぽう)4年(1744)『歳旦帖(さいたんちょう)』からである。代表的画号は謝長庚(しゃちょうこう)、謝春星(しゃしゅんせい)、1778年(安永7)以後は謝寅(しゃいん)。
[清水孝之]
出自と修業時代
享保(きょうほう)元年摂津国(せっつのくに)東成(ひがしなり)郡毛馬(けま)村(大阪市都島区毛馬町)の豊かな農家に生まれたらしい。少年時代に伊信(これのぶ)という画生と多少の交流があったが、享保(1716~1736)の末ごろ単身江戸へ下り書画、漢詩、俳諧(はいかい)などを学んだ。1737年(元文2)以後は京都から江戸に帰った早野巴人(はじん)(宋阿(そうあ))の夜半亭(やはんてい)に入門して江戸俳壇に知られた。1742年(寛保2)恩師宋阿没後江戸を離れ、砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って結城(ゆうき)(茨城県結城市)に行き、やがて松島、象潟(きさかた)から奥羽一円に及ぶ旅行を試みた。1744年には宇都宮(うつのみや)で初の歳旦帖を刊行、初めて「蕪村」号を用いた。翌1745年(延享2)結城の早見晋我(しんが)の死を悼んで『北寿老仙をいたむ』(釈蕪村と署名)を残した。仮名詩(和詩)の流行を批判した清新な自由詩である。結城弘経寺(ぐぎょうじ)の大玄上人(しょうにん)に帰依(きえ)して剃髪(ていはつ)したと推定され、同寺に多数の襖絵(ふすまえ)を残した。英一蝶(はなぶさいっちょう)風の風俗画のみならず、精神の自由を表現しようとする新興文人画への志向が認められる。
[清水孝之]
西帰
1751年(宝暦1)36歳の8月に京都に上る。宋阿の遺弟望月宋屋(もちづきそうおく)、高井几圭(たかいきけい)らがいたが、蕪村の目的は彭城百川(さかきひゃくせん)、池大雅(いけのたいが)らの活躍する新興文人画研究に存した。1754年には丹後・宮津に赴き3年半の間専心画業に精励し『八種画譜』『芥子園画伝(かいしえんがでん)』など中国版本の学習を、自然そのものに学ぶことによって修正深化し、専門画家としての実力を身につけた。和画よりもいっそう漢画風に重点を置き、山水図、神仙図などを多く描いた。帰洛後姓を与謝氏と改め、結婚して1女をもうけた。また来舶清人(しんじん)沈南蘋(しんなんぴん)の写実的画風を取り入れ、1763年には山水図、野馬図などの屏風(びょうぶ)大作を描いて京洛画壇に高く評価される。
[清水孝之]
画俳併行時代
明和(めいわ)年間(1764~1772)に入ると画業に脂がのり、屏風講によって続々と大作が制作された。その間1766~1768年(明和3~5)に讃岐(さぬき)(香川県)へ渡り優れた墨彩に気韻生動を会得し、やがて1771年池大雅とともに『十便十宜画冊(じゅうべんじゅうぎがさつ)』を競作し近世南画大成者の一人として活躍する。三宅嘯山(みやけしょうざん)編『俳諧古選』(1763)に炭太祇(たんたいぎ)とともに江戸下りの俳人として期待された蕪村は、讃岐から帰京すると三菓社の発句会(ほっくかい)に熱意を傾け、
鮎(あゆ)くれてよらで過行く夜半(よは)の門(もん)
鳥羽殿(とばどの)へ五六騎いそぐ野分哉(のわきかな)
など、詩画一致の新風を続々と歌い出した。それらは内外の古典を踏まえて印象的把握と絵画的構成を方法としている。以後は漢詩境の俳諧化を軸に多面的な変化を示す。漢詩人でもあった門人黒柳召波(くろやなぎしょうは)に「俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚(たふと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」(『春泥句集(しゅんでいくしゅう)』序)と説き、「詩を語るべし」と勧め、多読による「書巻之気」の上昇を教えた。美意識の向上のもとに理想美を描き出そうという浪漫(ろうまん)的俳諧観も明和初年には確立されていた。
1770年3月、先輩几圭の息几董(きとう)を後継者とすることを条件に夜半亭2世を継承、翌年『明和辛卯春(しんぼうのはる)』を刊行する。温厚忠実な弟子几董は安永(1772~1781)以後、夜半亭の煩雑な事務を的確に処理してゆく。『其雪影(そのゆきかげ)』(1772)を手始めに『あけ烏』(1773)、『続明鴉(あけがらす)』(1776)両集は蕪村一派の貞享蕉風(じょうきょうしょうふう)による復古運動の成果を天下に示した。夜半翁が後見者の立場で撰集(せんしゅう)を几董任せにしたのは、弟子の自立性を促す意図であり、蕪村自身は南宗画人としての意識が優先していた。俳壇的には金沢の麦水(ばくすい)・闌更(らんこう)、伊勢(いせ)の樗良(ちょら)、名古屋の暁台(きょうたい)、大坂の旧国(ふるくに)(大江丸)・二柳(じりゅう)らとの交渉が目だち、諸国の中興俳人たちが蕪村・几董師弟を目ざして上洛するという盛況であった。とくに樗良・暁台・麦水との交流は重要である。画業も京都の門人たちのみでなく、俳諧関係の知友らを通じて地方へも販路を広げていった。
[清水孝之]
画俳融合時代
1776年(安永5)樋口道立(ひぐちどうりゅう)の首唱により洛東金福寺(こんぷくじ)を会場とする、年2回の写経社の結成と一連の芭蕉(ばしょう)顕彰事業も、隠逸を理想とする一派の復古運動を象徴する。1779年の檀林会(だんりんかい)は連句修業の俳諧学校、そこから几董との両吟歌仙『もゝすもゝ』が実を結ぶが、晩年の最高潮期は1777年である。前年末ひとり娘を嫁がせた彼は『夜半楽(やはんらく)』を編集して郷愁の連作詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」を発表し文学史上不朽の業績を残した。ついで4月8日から亡母追善の夏行(げぎょう)として毎日10句ほどの夏発句(げほっく)を始めるが、娘の離縁問題によって中絶する。それらの句は写実ではなく、理想美を追求する作風の特色をよく示している。
方百里雨雲よせぬぼたむ哉
三井寺や日は午(ご)にせまる若楓(わかかへで)
中絶後の空白を、修業時代の回想談によって埋めた独自の俳文とともに句文の二重奏が没後刊行された『新花(しんはな)つみ』(1797)である。
1777年を頂点として蕪村の文学活動は下降する。1783年(天明3)の維駒(これこま)編召波十三回忌集『五車反古(ごしゃほうご)』においても作風に変化をみせることはない。画業では1776年几董あて書簡に「はいかい物の草画」を誇負し、1777~1779年には『野ざらし紀行図巻』『奥の細道図巻』や芭蕉翁像を多く制作して画俳の融合を試みる。1778年からの「謝寅」号やさらに「日本東成(とうせい)」を加えた落款は、日本的風土に根ざした独自の南画の創造とかかわる。1782年の『四季山水図』『農家飼馬図』には池大雅とは異質の風土性と俳諧味が著しく、年次不明の『竹渓訪隠図』『夜色楼台図』などの傑作は蕪村以外の誰人も描けない独自性と完成度を示している。
[清水孝之]
晩年
最後の俳壇的活動は、1783年春義仲寺(ぎちゅうじ)と東山を舞台にした暁台主催の芭蕉百回忌取越興行(とりこしこうぎょう)(実は九十回忌)を、江戸の蓼太(りょうた)とともに後援したことである。このとき蕪村の示した情熱は、彼の生涯にわたる俳諧活動が、蕉風復古運動そのものの歴史的意義にかかわることを明示する。1783年初冬より病に倒れ12月25日未明68歳の完結した生涯を終わった。終命のありさまは追善集『から檜葉(ひば)』(1784)巻頭の几董筆「夜半翁終焉記(しゅうえんき)」に詳しい。
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
が辞世句であった。遺命に従って金福寺(京都市左京区一乗寺才形町)芭蕉庵(あん)のほとりに葬られ、残された妻と娘も几董、月渓(げっけい)、梅亭や裕福な商人田福(でんぷく)や百池(ひゃくち)らの援助を受けた。なお「几董著」とある『蕪村句集』(1784)は従来几董編集と解されてきたが、晩年の「蕪村自筆句帳」(本間美術館蔵)の出現によって、蕪村最晩年の自撰句集であることが判明した。師意を受けた几董は原本を忠実に清書して世に著(あらわ)したのである。
[清水孝之]
『大谷篤蔵他編『古典俳文学大系12 蕪村集』(1972・集英社)』▽『尾形仂編著『蕪村自筆句帳』(1974・筑摩書房)』▽『『蕪村と門人』(『潁原退蔵著作集13』1979・中央公論社)』▽『清水孝之校注『新潮日本古典文学 与謝蕪村集』(1979・新潮社)』▽『吉沢忠解説『日本美術絵画全集19 与謝蕪村』(1980・集英社)』▽『村松友次著『鑑賞日本の古典17 蕪村集』(1981・尚学図書)』▽『清水孝之著『与謝蕪村の鑑賞と批評』(1983・明治書院)』▽『栗山理一他校注・訳『完訳日本の古典 蕪村集・一茶集』(1983・小学館)』