落柿舎(読み)らくししゃ

精選版 日本国語大辞典 「落柿舎」の意味・読み・例文・類語

らくし‐しゃ【落柿舎】

京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町にある向井去来別宅の号。元祿四年(一六九一芭蕉がしばらく滞在した。去来没後荒れていたが、明治再興された。裏に去来の墓がある。
※俳諧・嵯峨日記(1691)「元祿四辛未卯月十八日、嵯峨に遊びて去来が落柿舎に到」

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デジタル大辞泉 「落柿舎」の意味・読み・例文・類語

らくし‐しゃ【落柿舎】

京都市右京区嵯峨さがにあった向井去来の別宅。師の芭蕉がこの庵を訪ねて「嵯峨日記」を残した。現在の建物は、明治初年に再興。

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日本歴史地名大系 「落柿舎」の解説

落柿舎
らくししや

[現在地名]右京区嵯峨小倉山緋明神町

常寂光じようじやつこう寺の東北、有智子内親王墓うちしないしんのうのはかの東隣にあり、蕉門十哲の一人、向井去来閑居の跡である。去来は聖護院しようごいん(現左京区)の舎兄元端の邸内に住んだが、元禄初年頃、嵯峨に古家を買求めて隠棲所とし、落柿舎と命名農民町人の出入りできる俳諧道場とした。落柿舎の名の起りは、去来の「落柿舎ノ記」(元禄二年稿)に記され、「そのほとりに柿の木四十本あり」という古家で、商人が立木のまま柿を買求めようとしたが、あまりに実が落ちるのに驚いてやめてしまった。そこで去来は「友どちの許へ消息送るとて、みづから落柿舎の去来と書きはじめけり」と述べ、

<資料は省略されています>

の句を記している。その場所は「落柿舎は下嵯峨川端村の後に有」(去来筆「明細書」)とあり、下嵯峨村(川端村)であったらしい。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「落柿舎」の意味・わかりやすい解説

落柿舎
らくししゃ

京都嵯峨野(さがの)にあった、芭蕉(ばしょう)の門人去来(きょらい)の別邸。1685、86年(貞享2、3)ごろに購入したらしい。その命名については去来の『落柿舎ノ記』に詳しく、1689年(元禄2)のことか。屋敷の広さは約1000坪(約3300平方メートル)。のちに小さく改築。芭蕉は1689年12月、91年4月から5月、94年閏(うるう)5月から6月にここに滞在し、91年のおりには落柿舎に来訪した門人たちの動静や自身の心境を記した『嵯峨(さが)日記』を残している。嵯峨野にあったことは確かだが正確な場所は不明で、現在の落柿舎は1770年(明和7)に井上重厚(じゅうこう)が嵯峨小倉山(おぐらやま)下の弘源寺跡に再興し、さらに明治初年に復興。別の場所にも落柿舎と称するものが建てられたりしたことがある。

[櫻井武次郎]

『保田与重郎著『落柿舎のしるべ』(1965・落柿舎)』

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世界大百科事典(旧版)内の落柿舎の言及

【小倉山】より

…東麓に藤原定家の山荘時雨(しぐれ)亭の跡という厭離(おんり)庵がある。同庵近くの落柿舎(らくししや)は向井去来の別荘であり,芭蕉はここで《嵯峨日記》を書いた。【奥村 恒哉】。…

【去来】より

…文献上,去来の俳諧作品の初出は,1685年夏に江戸の風瀑が編んだ《弌楼賦(いちろうのふ)》の発句2章である。86年ごろ京都郊外の嵯峨野に別荘を購入し(のちに落柿舎(らくししや)と命名),89(推定),91,94年と,上京した芭蕉をここに招いている。芭蕉監修のもとに凡兆と編んだ《猿蓑》(1691)は,蕉風俳諧の代表的撰集と賞せられる。…

※「落柿舎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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