萩焼(読み)はぎやき

精選版 日本国語大辞典 「萩焼」の意味・読み・例文・類語

はぎ‐やき【萩焼】

〘名〙 山口県萩市、長門市から産する陶器。慶長三年(一五九八毛利輝元が朝鮮から陶工李勺光・李敬兄弟をつれ帰り、のち萩城下で陶器を焼かせたのが始まりという。釉色は藁灰釉を用いた白濁色で、雅味がある。
※俳諧・桜川(1674)秋二「萩焼かいやにしき手の花のさら〈宗臣〉」

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デジタル大辞泉 「萩焼」の意味・読み・例文・類語

はぎ‐やき【×萩焼】

山口県萩市長門ながとで産する陶器。文禄慶長の役後に朝鮮から渡来した陶工により始められ、松本萩深川萩の二系統に分かれて今日に至る。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「萩焼」の意味・わかりやすい解説

萩焼
はぎやき

山口県萩市・長門(ながと)市で焼造される陶器。桃山時代の天正(てんしょう)~慶長(けいちょう)年間(1573~1615)、萩藩主毛利輝元(てるもと)が、朝鮮半島から帰化した陶工の李勺光(りしゃっこう)・李敬兄弟に御用窯として開窯させたのを発祥とする。萩城下坂下の東郊松本村中之倉(現萩市椿東(ちんとう))に築窯したので、この系列窯を松本萩といい、李敬を陶祖とした。これに対して兄勺光の一族が1653年(承応2)深川(ふかわ)村三之瀬(そうのせ)(現長門市)に分窯した系統を深川萩という。松江重頼(しげより)著『毛吹草(けふきぐさ)』に萩焼の名がみえ、都でもその存在が知られていたことがうかがえる。1663年(寛文3)三輪休雪(みわきゅうせつ)が松本に三輪窯をおこし、松本・深川の二系統が併存して今日に至っている。

 初期萩焼窯とされる松本萩の坂窯の発掘では、茶碗(ちゃわん)、茶入、花いけなどの茶陶に加え、大量の日常雑器が出土している。また釉(うわぐすり)にも褐釉(かつゆう)が加わって今日の萩焼とは大きく異なり、唐津(からつ)焼や高取(たかとり)焼と同様に多様な作陶内容を示しており、藩窯でありながら一般庶民向け焼物も生産対象にあったことが推察できる。

 防府(ほうふ)で出土する大道土(だいどうつち)を用い、特有の藁(わら)灰質の白濁釉をかけた、茶陶としての作風が樹立したのは江戸前期と思われ、茶人の間では「一楽、二萩……」と賞玩(しょうがん)された。びわ色の釉をかけた茶碗はわびの風情に満ち、使うほどに釉色が変化するところから「萩の七化け」の俗称がある。遺品には三島(みしま)・粉引(こひき)・刷毛目(はけめ)・井戸・熊川(こもがい)などの高麗(こうらい)茶碗を写したものが多く、割高台(わりこうだい)にも特色がある。

[矢部良明]

『林屋晴三編『日本陶磁全集18 萩他』(1978・中央公論社)』『『世界陶磁全集7 江戸2』(1980・小学館)』


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改訂新版 世界大百科事典 「萩焼」の意味・わかりやすい解説

萩焼 (はぎやき)

山口県萩市,長門市の窯で焼造される陶器。萩焼は1604年(慶長9)に入府した萩藩主毛利家の御用窯として,萩城下の東郊松本村中之倉(現,萩市椿東)に,朝鮮から帰化した陶工李勺光(りしやくこう)と李敬によって開かれたといわれている。萩焼の名は1638年(寛永15)著の《毛吹草》にみえ,このころには名産となっていた。地元で松本焼とよばれる松本御用窯の創業後,53年(承応2)に李勺光の子の付人であった蔵崎五郎左衛門が長門市に窯を築いて三之瀬(そうのせ)焼物所,いわゆる深川(ふかわ)萩をはじめ,また松本には63年(寛文3)三輪休雪が三輪窯を興すなど以後この2窯の系統が併存して今日に至っている。いつごろからか判然としないが,防府市で出土する大道土をつかって作陶し,これに萩焼独特のわら灰質の白濁釉をかけ,おもに茶陶を焼いてきた。俗に〈一楽二萩三唐津〉とよばれるように茶陶の声価は高く,遺品もほとんど茶碗でしめられているが,近年発掘調査された松本焼の古窯址からは,茶碗,水指,茶入のほか大量の碗皿,土瓶,油壺などが出土し,伝承のような茶具専窯ではなく,一般什器を生産の重要な器種としていたことが知られた。
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百科事典マイペディア 「萩焼」の意味・わかりやすい解説

萩焼【はぎやき】

山口県で産する陶器。慶長年間の朝鮮役の際に帰化した陶工,李勺光(りしゃくこう)・李敬兄弟の開窯といわれる。萩市の松本萩と長門市湯本の深川(ふかわ)萩があり,前者は李敬(坂高麗左衛門)が始め,のち三輪窯が代々業を継ぎ,後者は李勺光が山村姓を名乗って創業,坂家が継いで現在に至っている。〈一楽二萩三唐津〉と称されるように茶器特に茶碗が名高く,白色の柔らかい肌合(はだあい)が特徴。
→関連項目萩[市]山口県立美術館

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事典 日本の地域ブランド・名産品 「萩焼」の解説

萩焼[陶磁]
はぎやき

中国地方、山口県の地域ブランド。
萩市・長門市・山口市などで製作されている。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、朝鮮半島に渡った毛利輝元が現地の陶工李勺光・李敬をともなって帰国し、萩に城を移してからも御用品を焼く窯を開くことを許した。この窯が萩焼の始まりである。萩焼の特徴は、やわらかな土味と、素地土の吸水性にある。このため、長年使い込むほどに茶の色が浸透して茶碗の色合いに変化のあらわれることを萩の七化けと呼称し、茶人の間では珍重されている。また、器の形が素朴で加飾が少なく、絵付けは殆どおこなわれていないのも特徴。2002(平成14)年1月、経済産業大臣によって国の伝統的工芸品に指定。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「萩焼」の解説

萩焼
はぎやき

萩藩の陶窯とその製品。萩焼の呼称は現代に始まる。山口県の萩市内の松本焼と長門市深川(ふかわ)湯本の深川焼に大別される。文禄・慶長の役後に招致された李朝の陶工李勺光(りしゃくこう)と李敬によって築窯された。文献では1638年(寛永15)の「毛吹草」に萩の産物としてあげるが,その創始の年代は不明。しかし藩の御雇細工人に坂・三輪・佐伯(林と改姓)・山村の4家が認められる。坂家の坂窯の発掘により,大量の日常飲食器が焼かれたことが判明したが,有名な茶道具については,ほとんど確認されなかった。江戸時代の萩焼の名作については数も少なく,近年,その力作は福岡県の高取焼の作とされる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「萩焼」の意味・わかりやすい解説

萩焼
はぎやき

山口県萩市周辺,また広く山口県下で産する陶器の総称。文禄・慶長の役 (1592,97) のとき,毛利輝元が朝鮮から陶工李兄弟を連れてきて,萩の松本中ノ倉で焼かせたのに始る。兄の李勺光 (りしゃっこう) の系統を深川萩 (長門市深川) ,弟の李敬の系統を松本萩 (萩市松本) と称し,窯元 (村山窯,坂窯) が現代まで続いている。作品は井戸茶碗などの茶器がおもで,軟らかい胎土に独特の肌合いをもつ白釉 (はくゆう) をかけて焼いたものが多く,釉ひびを特色としている。

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防府市歴史用語集 「萩焼」の解説

萩焼

 萩藩によってつくられた陶器[とうき]のことです。豊臣秀吉[とよとみひでよし]の朝鮮出兵[ちょうせんしゅっぺい]の後に招かれた工人・李勺光[りしゃくこう]と李敬[りけい]によってはじめられたのですが、いつはじめられたのかはわかっていません。李敬がはじめた萩市の松本焼[まつもとやき]と李勺光のはじめた長門市の深川焼[ふかわやき]にわけられます。

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旺文社日本史事典 三訂版 「萩焼」の解説

萩焼
はぎやき

江戸初期以来,長門(山口県)萩地方で産する陶器
毛利輝元が文禄・慶長の役の際,朝鮮から李勺光 (りしやくこう) ・李敬の兄弟を連れ帰り,城下に住まわせて茶器を焼かせたことに始まる。深川萩・松本萩の2系統があり現在に及ぶ。

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世界大百科事典(旧版)内の萩焼の言及

【山口[県]】より

…萩市は近世毛利氏の城下町景観をよく保存し,松下村(しようかそん)塾や萩城跡,伊藤博文旧宅など明治維新期の史跡の多い町である。茶器として全国に知られる萩焼は,萩藩御用窯の伝統を伝えるすぐれた陶芸で,多くの窯元があって,近年は食器,花器,置物など多種の製品がつくられ,山陰の城下町にふさわしい観光産業となっている。県の東端岩国市にある錦帯橋は錦川に架けられたアーチ型5連の木橋で,江戸時代から日本三奇橋の一つとして知られた貴重な文化財であり,錦川の鵜飼いとともに多くの観光客をよんでいる。…

※「萩焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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