華厳宗(読み)けごんしゅう

精選版 日本国語大辞典 「華厳宗」の意味・読み・例文・類語

けごん‐しゅう【華厳宗】

〘名〙 仏語。華厳経を所依として中国唐代杜順に起こり、賢首(げんじゅ)大師法蔵によって組織大成された大乗の一宗。日本には天平八年(七三六)唐の道璿(どうせん)が伝えたといい、同一二年、良弁(ろうべん)の請いにより新羅僧審祥が金鐘道場(東大寺法華堂)でこの経を講じたという。その後、良弁が東大寺で宣教し興隆したがやがて衰微し、鎌倉時代には高弁・凝然が出て復興に努めた。明治初年、一時浄土宗に属し、同一九年(一八八六)独立して東大寺を大本山とし、現在は末寺約五十か寺、信徒約五万人。五教十宗の教判の下に、法界縁起(ほっかいえんぎ)と十玄六相の事々無礙(じじむげ)を説き、三生成仏(さんしょうじょうぶつ)を唱える。南都六宗の一つ。賢首宗。けごん。
選択本願念仏集(1198頃)「如華厳宗五教而摂一切仏教。所謂小乗教始教終経頓教円教是也」

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デジタル大辞泉 「華厳宗」の意味・読み・例文・類語

けごん‐しゅう【華厳宗】

華厳経をよりどころとする仏教の宗派。中国唐代に賢首げんじゅ大師法蔵が大成し、日本には、唐僧道璿どうせんによって天平8年(736)伝えられたという。東大寺が造営されてのち広められた。南都六宗の一。けごん。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「華厳宗」の意味・わかりやすい解説

華厳宗
けごんしゅう

中国、唐代に成立した仏教宗派。賢首宗(げんじゅしゅう)ともいう。宗祖は杜順(とじゅん)、大成者は法蔵(ほうぞう)。『華厳経』を所依の経典とし、天台宗と並んで中国仏教の双璧(そうへき)といわれる。東晋(とうしん)末、北インド出身の僧ブッダバドラ(仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら))によって『華厳経』が翻訳されてから、『華厳経』の研究が盛んとなり、とくに511年にはインドの論師バスバンドゥ(世親(せしん))の著書『十地経論(じゅうじきょうろん)』(『十地経』として単独で流布した『華厳経』十地品(じゅうじぼん)に解釈を施した論書)が、勒那摩提(ろくなまだい)と菩提流支(ぼだいるし)の2人によって伝訳された。この『十地経論』を所依として南北朝時代に成立した学派が地論宗(じろんしゅう)である。地論宗南道派から出た浄影寺(じょうようじ)の慧遠(えおん)は、『大乗義章(だいじょうぎしょう)』を著して地論宗の教義を大成した。その地論宗の教義が華厳宗成立の学問的基礎となった。

 一方、『華厳経』を信仰するグループもつくられ、華厳宗成立の基盤が成熟した。そこに現れたのが神秘を現ずる杜順であり、彼が華厳宗の信仰面における宗祖とされた。また新しく中国に伝えられた玄奘(げんじょう)の唯識(ゆいしき)説を採用しながら、従来の地論宗の学説を発展させたのが、華厳宗の第二祖とされる智儼(ちごん)(602―668)である。この智儼の学問を受けて華厳宗の哲学を大成させたのが賢首大師法蔵であった。それ以後、澄観(ちょうかん)、宗密(しゅうみつ)が出て華厳宗を中興させたが、優れた後継者が得られず、禅宗の勃興(ぼっこう)に押されて衰亡した。宋(そう)代に一時復興したが、その後は衰微。

鎌田茂雄

日本

日本には奈良時代に唐の道璿(どうせん)や新羅(しらぎ)の審祥(しんじょう)によって伝えられた。良弁(ろうべん)が法統を嗣(つ)ぎ、東大寺を建立し、華厳宗の根本道場としたことによって、南都六宗の一つとなった。鎌倉時代には宗性(そうしょう)(1202―1278)、凝然(ぎょうねん)が出て中興し、また高弁(こうべん)(明恵(みょうえ))が栂尾(とがのお)高山寺を開き、華厳の宗風を宣揚した。しかし江戸以降は檀信徒(だんしんと)主体の宗派のなかで宗勢は振るわなかった。

 華厳宗の教理は、すべてのものの円融無碍(えんゆうむげ)なる関係を説くもので、大乗仏教の縁起説(えんぎせつ)の究極的な発展形態を示す。密教の教理の背景は華厳思想で、さらに禅の思想のなかにも生きている。

 東大寺を中心として栄えた華厳宗は、明治初年に浄土宗の所轄となったことがあったが、1886年(明治19)に一宗として独立し現在に至っている。寺院数62、教会数20、布教所数30、教師数625、信者数3万8983(『宗教年鑑』平成26年版)。

[鎌田茂雄]

『鎌田茂雄著『中国華厳思想史の研究』(1965・東京大学出版会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「華厳宗」の意味・わかりやすい解説

華厳宗 (けごんしゅう)

《華厳経》を所依とする仏教の一派。

中国では5世紀の初めに,覚賢が訳出した60巻本《華厳経》を読誦し,供養することによって,霊験を求める民俗信仰にはじまる。南北朝より隋・唐にかけて,終南山至相寺を中心に,初祖杜順,2祖智儼,3祖法蔵の伝統を確立し,五教十宗の教学体系と,独自の実践,結社の組織化を完成する。天台の実相論に対し,〈一即一切,一切即一〉の縁起を説き,〈縁来れば生ず,縁去れば滅す〉という従来の縁起に対し,〈縁来るも生ぜず,縁去るも滅せず〉という絶対実在の性起を主張する。とくに唐代以後,実叉難陀の80巻本《華厳経》と,般若の〈入法界品〉を合わせて,教義の深化を見ると共に,4祖澄観,5祖宗密が,天台・戒律・禅の思想を総合し,のちに宋学に影響するほか,古くより朝鮮,日本に伝わって,それぞれの民族文化の開花を導いた。
執筆者:

中国における華厳隆昌の動向は,新羅や日本にも多大の影響を与えた。法蔵の兄弟子に当たる新羅の義湘は,帰国すると慶尚北道大伯山に浮石寺を建て,あるいは元暁などと全羅南道の華厳寺で,当宗の布教や著述に専念した。両者は新羅華厳の基をひらいた学僧として著名である。11世紀中期には高麗の皇子義天も宋より帰国し,華厳・天台などの興隆につとめた。

日本では華厳宗は八宗および南都六宗の一つである。新羅華厳の隆昌は日本にも影響を与え,入新羅留学僧などにより,旧訳の60巻本の《華厳経》が伝えられ,新訳の80巻本は,道慈(大安寺)により請来されたし,736年(天平8)の遣唐船で来日した唐僧道璿(どうせん)によりもたらされた。教理の研究は740年に金鐘寺(東大寺の前身)において良弁が新羅で華厳を学んだ大安寺の審祥を講師とし,慈訓,鏡忍を複師として開始し,大仏造顕の教理の基を開いた。749年(天平勝宝1)には15大寺に対して〈華厳を以て本と為す〉の勅旨が示され,752年4月には大仏開眼供養会が行われた。奈良時代には東大寺,大安寺,薬師寺,西大寺などに華厳専攻の学僧が止住し研究に当たったが,政治社会の動向で衰退していった。819年(弘仁10)に道雄は山城国に海印寺を建て,955年(天暦9)に光智は東大寺に尊勝院を創建し,華厳宗の本所とし,宗の復興宣布に務めた。12世紀末には景雅,弁暁が出て,弁暁は当院の再興を図るとともに,その門下より明恵,さらに宗性,凝然などの学僧が輩出した。しかし以後宗風は振るわず,江戸時代中期に鳳潭や普寂が復興を図った。明治維新に際し,東大寺は1873年に浄土宗に属し,1886年に華厳宗大本山として独立,現在に至っている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「華厳宗」の意味・わかりやすい解説

華厳宗【けごんしゅう】

華厳経を根本とし,中国,唐代の法順が立て,法蔵が組織づけた大乗仏教の宗派。日本では南都六宗の一つ。740年唐僧道【せん】(どうせん)が日本に伝えたといわれるが,法蔵の弟子,新羅の審祥(しんじょう)が同年,東大寺で華厳経を講じたのをもって始祖とする。良弁(ろうべん)が跡を継ぎ,鎌倉時代には2派に分かれ,明恵(みょうえ)が実践面で,凝然(ぎょうねん)が理論面で華厳教学の復興を図った。五教十宗の教判に基づき,法界(ほっかい)縁起を中心に,万物の相互,しかも無限の関係を説く。大本山は東大寺
→関連項目華厳縁起大乗起信論杜順浮石寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「華厳宗」の意味・わかりやすい解説

華厳宗
けごんしゅう

中国,唐の杜順の開いたといわれる宗派。『華厳経』に基づく宗派であって,その成立の背景に,『華厳経』の写経や読誦を通して表現される『華厳経』信仰や,その信仰に基づく信仰団体である華厳斎会 (さいえ) などの存在があったといわれる。やがて智儼が現れ,法蔵によって体系づけられた。その後澄観,宗密が出た。新羅の義湘は杜順に華厳教学を学び,帰国後,東海華厳宗を開いた。元暁も入唐して華厳を学んだ。菩提仙那とともに日本に来た (736) 道せん (どうせん) は華厳教学を初めて日本に伝えたとされる。新羅出身で法蔵に華厳を学んだ審祥 (しんじょう) は日本に渡来して『華厳経』を講義し (740) ,その教学を受継いだ良弁が東大寺をその中心とし,のちに光智は東大寺に尊勝院を建て『華厳経』に基づく修行の道場とした。そののち多くの学僧が輩出した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「華厳宗」の解説

華厳宗
けごんしゅう

南都六宗の一つ。「華厳経」を所依の経典とする宗派。中国では東晋以後「華厳経」が漢訳され,唐代に法蔵が宗義を大成した。朝鮮半島では新羅の義湘(ぎしょう)・元暁(がんぎょう)がこれを広め,日本へは8世紀前半までに経典や章疏が伝えられた。740年(天平12)からは審祥(しんじょう)・慈訓(じくん)・鏡忍らにより「華厳経」の講義が行われ,東大寺には華厳教主としての毘盧遮那(びるしゃな)の大仏が造立され,10世紀半ばには光智創建の尊勝院が教学の本拠となった。鎌倉時代には宗性(そうしょう)やその弟子凝然(ぎょうねん)がでて華厳教学の復興をもたらした。1872年(明治5)浄土宗に属したが,86年東大寺を本山とする華厳宗として独立した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「華厳宗」の解説

華厳宗
けごんしゅう

華厳経を根本とする仏教の宗派
唐の杜順 (とじゆん) を第1祖,ついで智儼 (ちごん) 。内容・形式にわたる宗派の大成者は第3祖法蔵(643〜712)である。中国十三宗の1つで,日本には奈良朝に伝来。南都六宗の1つ。日本においては,奈良県東大寺が総本山。

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旺文社日本史事典 三訂版 「華厳宗」の解説

華厳宗
けごんしゅう

南都六宗の一つ
唐代に法蔵が『華厳経』に基づいて大成し,736年唐僧道璿 (どうせん) が日本に伝えた。奈良中期から盛んになり,東大寺はその根本道場として造られた。

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世界大百科事典(旧版)内の華厳宗の言及

【東大寺】より

…奈良市雑司町にある華厳宗の総本山(図)。大華厳寺,恒説華厳寺,金光明(こんこうみよう)四天王護国寺,総国分寺などの別称がある。…

【杜順】より

…18歳で出家し隋の文帝に重んぜられた因聖寺僧珍に師事,のち終南山にて華厳を宣揚,唐の太宗は禁中に招き徳を仰ぎ,また貴顕こぞって帰依したという。640年(貞観14),義善寺に入寂したが,諸方を遊行して教化に当たり,華厳宗の開祖と称された。その著《華厳法界観門》は華厳の根本経典となり,彼の弟子で華厳第2祖の智儼撰《華厳一乗十玄門》によって発展拡充された。…

【南都六宗】より

…奈良六宗ともいう。8世紀に官大寺などで研究されていた三論宗,成実(じようじつ)宗,法相(ほつそう)宗俱舎(くしや)宗華厳(けごん)宗律宗の六宗を指す。六宗の成立以前に華厳宗を除く五宗が成立していたことは,718年(養老2)10月の太政官符に〈五宗の学,三蔵の教〉とあることからもうかがわれ,藤原氏祖先の伝記である《家伝》(鎌足伝)も藤原鎌足が飛鳥元興(がんごう)寺に五宗の研究の費用を寄付したと伝えている。…

※「華厳宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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