菊竹清訓(読み)キクタケキヨノリ

デジタル大辞泉 「菊竹清訓」の意味・読み・例文・類語

きくたけ‐きよのり【菊竹清訓】

[1928~2011]建築家。福岡の生まれ。黒川紀章らとメタボリズム理論を提唱。大阪万博のエキスポタワーや江戸東京博物館などを設計した。海上都市などの都市構想でも知られる。著作に「代謝建築論」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「菊竹清訓」の意味・わかりやすい解説

菊竹清訓
きくたけきよのり
(1928―2011)

建築家。福岡県久留米市生まれ。1950年(昭和25)早稲田大学理工学部建築学科卒業後、竹中工務店に勤務(1950~1952)。村野・森建築設計事務所を経て、1953年菊竹清訓建築設計事務所を開設する。1995年(平成7)博士論文「軸力ドームの理論とデザイン」で工学博士

 菊竹は独立後、出身地である久留米でいくつかの作品をつくり、ブリヂストンタイヤ殿ヶ谷(とのがや)第一アパート(1956、神奈川)に続いて、1958年東京都文京区に自邸スカイハウスを竣工し、衝撃的なデビューを果した。これは鉄筋コンクリート造で主要居住部分はピロティによって持ち上げられた住宅であり、後の1960年に黒川紀章(きしょう)、川添登らと結成するメタボリズム・グループの思想をいち早く実現した。メタボリズムは生物学用語で新陳代謝を意味し、転じて都市や建築は新陳代謝し、進化、発達する有機体でなければならないとする建築思想である。都市の基幹設備、インフラストラクチャーと、進化、発達、更新を続けるユニットを組み合わせるシステムは、スカイハウスのピロティと、持ち上げられた居住単位および設備の更新によって取り替え可能なキッチンやバス・トイレからなるムーブネット(設備ユニット)の組み合わせで明快に表現されていたのである。

 菊竹はチームⅩ(テン)会議(1962)に「海上都市」「搭状都市」などのスケッチをもって丹下健三槇文彦(まきふみひこ)とともに参加し、ル・コルビュジエらの作り上げた都市観を越えて技術指向を前面に出した方法論をプレゼンテーションした。当時、菊竹と同世代であるイギリスの建築グループ、アーキグラムも同じく会議で技術指向を表明した。しかし、アーキグラムらの批評的都市イメージは、右肩上がりの経済と都市建設のさなかに、菊竹らによりすでに日本で先取りされ、現実化されたものであり、その先をいくメタボリズム・グループは世界のアバンギャルド建築家たちから驚きの眼で見られた。

 その頂点は大阪で開催された日本万国博覧会ランドマークタワー(1970)であり、また沖縄海洋博覧会アクアポリス(1975)である。これらは単体の建築というより菊竹の構想するメタボリズム都市の一部の実現であり、本格的な使用実験も行われた。

 1963年発表した設計仮説「か・かた・かたち」は建築設計の方法を理論化したものである。デザイン・プロセスを構想段階、技術とタイポロジーの段階、形態的、実施的な段階と明確に分節し、より論理的で合理的なかたちで示したのであった。

 菊竹は伝統的な建築様式に鉄筋コンクリート造の表現を用いた出雲大社庁の舎(1961。日本建築学会賞、芸術選奨文部大臣賞、AIA(アメリカ建築家協会)汎太平洋賞)などで伝統を現代建築に取り入れた。国立京都国際会議場コンペでは「か・かた・かたち」の方法論を取り入れ、優秀賞を獲得(1963)、久留米市民文化会館(1969)のホールでは大規模な可変装置の導入を試みるなど多彩な表現形式を展開した。その後、ベルナール・ビュフェ美術館(1973、静岡県)、萩市庁舎(1974)を経て、京都信用金庫店舗の作品群(1970年代)では京都周辺に一連の造形システムをもった建築を30あまり建設してコミュニティと建築とのあり方を示した。また菊竹は東京・渋谷公園通りのSEED(1986)やLOFT(1987)などの商業施設や、東京・銀座通りの銀座テアトルビル(ホテル西洋銀座。1987)など、1990年代、消費社会の最前線における街並の核となる繁華街の商業ビル計画にもかかわっている。

 また、つくば科学博覧会(1985、茨城県)のマスタープランを作成、なら・シルクロード博覧会(1988)プロデューサー、長野オリンピック冬季競技大会(1998)空間構成監督を務めた。

 そのほかの作品としては川崎市市民ミュージアム(1990)、江戸東京博物館(1992)、北九州メディアドーム(1998)などがある。

[鈴木 明]

『『代謝建築論』(1969・彰国社)』『『エコポリス・海岸都市』(1994・勁草書房)』『『メガストラクチャー』(1995・早稲田大学出版会)』『川添登著『METABOLISM 1960』(1960・美術出版社)』『『日本万国博の建築』(1970・朝日新聞社)』『『菊竹清訓作品と方法1956―1970』(1973・美術出版社)』『『菊竹清訓構想と計画』(1978・美術出版社)』『『菊竹清訓作品集』1~4(1990~1998・求龍堂)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「菊竹清訓」の意味・わかりやすい解説

菊竹清訓
きくたけきよのり

[生]1928.4.1. 福岡,久留米
[没]2011.12.26. 東京
建築家。久留米の地主の子に生まれた。1950年早稲田大学理工学部建築学科卒業。竹中工務店,村野・森建築事務所を経て,1953年菊竹清訓建築設計事務所を設立。自邸スカイハウス(1958)は明快な構成と完成度の高さで注目を集めた。1960年,日本の現代建築の出発点となったメタボリズム・グループ(→メタボリズム)を川添登,黒川紀章槇文彦,大高正人らと結成。「か・かた・かたち」論,「代謝建築論」など独自の建築論を展開。大胆な造型で影響を与え,事務所からは多くの人材が輩出している。1959年に塔状都市,海上都市といった都市プロジェクトを雑誌に発表。1964年,出雲大社庁の舎(1963)で日本建築学会賞,芸術選奨文部大臣賞受賞。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)では,エキスポタワーを設計し,建築の各部が代謝を続けるというメタボリズムの考えを作品として実現していった。1975年に沖縄県で開催された,国際海洋博覧会でアクアポリスを実現した。ほかに,東光園(1964),江戸東京博物館(1993),九州国立博物館(2005)など多くの作品がある。2000年ユーゴスラビア・ビエンナーレで「今世紀を創った世界建築家 100人」の一人に選出された。2006年旭日中綬章を受章。(→現代建築

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百科事典マイペディア 「菊竹清訓」の意味・わかりやすい解説

菊竹清訓【きくたけきよのり】

建築家。福岡県生れ。早稲田大学建築学科卒業。1953年菊竹清訓建築設計事務所設立。自邸〈スカイハウス〉(東京,1958年)で〈夫婦〉を中心とした住空間を提案し,その斬新さが衝撃を与えた。1960年メタボリズム・グループを結成,海上都市構想などを発表。1963年〈出雲大社庁の舎〉で日本建築学会賞をはじめ複数の賞を受賞。他の作品に沖縄海洋博覧会の〈アクアポリス〉(1975年),〈江戸東京博物館〉(1993年)などがある。
→関連項目伊東豊雄セゾン現代美術館長谷川逸子

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊竹清訓」の解説

菊竹清訓 きくたけ-きよのり

1928-2011 昭和後期-平成時代の建築家。
昭和3年4月1日生まれ。竹中工務店などをへて,昭和28年菊竹清訓建築設計事務所をひらく。33年自邸「スカイハウス」でデビュー。35年川添登らとメタボリズム・グループを結成。39年「出雲大社庁の舎(や)」で建築学会賞。作品はほかに沖縄国際海洋博アクアポリス,江戸東京博物館,島根県立美術館(平成16年公共建築賞特別賞)など。日本建築士会連合会名誉会長をつとめた。平成23年12月26日死去。83歳。福岡県出身。早大卒。著作に「代謝建築論」など。

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