菅原荘(読み)すがわらのしょう

百科事典マイペディア 「菅原荘」の意味・わかりやすい解説

菅原荘【すがわらのしょう】

能登国羽咋(はくい)郡,現石川県志雄(しお)町(現・宝達志水町)菅原・杉野屋(すぎのや)一帯にあった京都北野社(北野天満宮)領の最古荘園。もと住人弘行の私領であったが,官物(かんもつ)貢納免除の代償として国衙(こくが)に寄進,これを能登守藤原基頼が1114年北野社に常灯料所として寄進して成立。このときの寄進状によると寄進された〈菅原保〉は50町で,うち見作(げんさく)20町,荒野30町。なおこの寄進状は寄進地系荘園の成立や性格を知る重要な史料とされる。寄進をうけた北野社の執行(しぎょう)永勝は常灯用途20石の菅原荘を立券。ただし1221年の〈能登国大田文〉によると立券は1185年で,田数は23町余。1304年8月の大風雨によって倒壊した社殿修造を契機に,同年から造営料所となった。さらに1360年代以降は〈三年一請会料所〉として〈重色之神領〉となり,菅家長者と社務の知行分は2分の1に分割された。しかしやがて長者分・社務分とも北野社別当曼殊(まんしゅ)院の下で北野社に奉仕する祠官三家の一,松梅(しょうばい)院の手に渡り,14世紀末には同院の一円知行となった。以後代官請と直務(じきむ)を繰り返し,また守護押領在地領主の年貢未進に苦しみながらも中世末期まで維持した。

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改訂新版 世界大百科事典 「菅原荘」の意味・わかりやすい解説

菅原荘 (すがはらのしょう)

能登国羽咋(はくい)郡のうち現在の石川県羽咋郡宝達志水町の旧志雄町にあった荘園。もとは菅原保と称し国衙領であった。藤原基頼が能登守在任中,住人弘行の未進を理由に私領化し,1110年(天永1)10月にその田数50町(現作20町,荒野30町)を北野天満宮へ寄進した。この北野社領化に伴い〈菅原〉と命名されたという。ただし1221年(承久3)9月6日の能登国田数注文によれば立荘は1185年(文治1),田数は〈23町4反1〉としている。当荘の年貢20石が北野社常灯用途にあてられていたが,荘務進止と常灯の奉行をめぐって,社家と社僧との間で相論があり,1232年(貞永1)4月25日宮寺政所の裁断によって,常灯奉行は社僧有禅の子孫に相伝することになった。その後,北野社の造営料所,また三年一請会料所ともなり,北野宮寺雑掌が当荘を管掌したが,室町初期以後は松梅院の支配下におかれた。しかし在地領主や百姓の年貢未進が続き,代官支配と直務がくりかえされた。1513年(永正10)6月5日の室町幕府奉行人奉書で菅原公用の社納分が先規のとおり松梅院禅光に安堵されているが,これ以後のことは不詳である。
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