菅井汲(読み)すがいくみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「菅井汲」の意味・わかりやすい解説

菅井汲
すがいくみ
(1919―1996)

洋画家。大正8年3月13日神戸市に生まれる。大阪美術学校中退、阪急電鉄宣伝課に勤務、ポスターデザインに従事する。第二次世界大戦後、日本画に関心をもち中村貞以(ていい)(1900―82)に1年ほど学ぶ。また吉原治良(じろう)と交友。1952年(昭和27)に渡仏、以来パリに定住する。60年代なかばから、明快な色面の構成による独自の作風を示し、注目を集める。62、68年ベネチアビエンナーレ、65年サン・パウロ・ビエンナーレ展(外国作家最優秀賞)など、主要な国際展に出品を続け、高い評価を受ける。またクラクフ国際版画展で大賞のほか、各国で版画の受賞が多い。66年芸術選奨文部大臣賞を受ける。67年車を高速運転中に大事故を起こす。69年東京国立近代美術館ロビーのための大形作品『フェスティヴァル・ド・トウキョウ』を設置するため一時帰国。同年京都国立近代美術館で大規模な個展開催。71年レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章受章。建築とかかわる大形壁画を手がけたり、すでに署名が入れられた版画を大量に刷るなど、その活動領域を広げる。83年西武美術館ほかで回顧展が開催された。

[小倉忠夫・柳沢秀行]

『『菅井汲集』(1970・筑摩書房)』『『菅井汲版画集』(1970・美術出版社)』『『菅井汲作品集1952―1975』(1976・美術出版社)』『『一億人から離れて立つ画家菅井汲の世界』(1982・現代企画室)』『ジャン・クラランス・ランベール文、永盛克也訳『菅井汲』(1991・リブロポート)』『芦屋市美術博物館・町田市立国際版画美術館・東京新聞編『菅井汲 版画の仕事1955―1995』(1997・東京新聞)』『東京都近代美術館・兵庫県立近代美術館編『菅井汲展』(2000・菅井汲展実行委員会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「菅井汲」の意味・わかりやすい解説

菅井汲
すがいくみ

[生]1919.3.13. 神戸
[没]1996.5.14. 神戸
画家,版画家。第2次世界大戦後国際画壇で最も活躍した日本の画家の一人。 1933年に大阪美術学校に入学,37年大阪阪急百貨店で商業デザイン,ポスターなどを制作。 52年渡仏以来パリに居住,ヨーロッパ,アメリカ各地で個展を開催。リュブリャナ国際版画ビエンナーレ,東京国際版画ビエンナーレ,日本国際美術展,ベネチア・ビエンナーレ,サンパウロ・ビエンナーレ,クラクフ版画ビエンナーレなど国際美術展に数多く出品,受賞。日本的情感をもった丸,三角などの記号的形態を静的に構成した作風から,次第に動的な緊張感を伴う機能的美しさの表現へと変化している。主要作品『朝のオートルート』 (1964,東京国立近代美術館) ,国立京都国際会館壁画の『湖』『太陽』 (69) など。

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百科事典マイペディア 「菅井汲」の意味・わかりやすい解説

菅井汲【すがいくみ】

画家,版画家。神戸市生れ。大阪美術学校中退。中村貞以,吉原治良師事。1952年渡仏,グラン・ショーミエールに通う。以降パリに定住。1959年リュブリアナ国際版画展,1965年サン・パウロ・ビエンナーレに出品。赤・黄・青といった原色と幾何学的形態による,明快な作品を展開した。
→関連項目ベネチア・ビエンナーレ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菅井汲」の解説

菅井汲 すがい-くみ

1919-1996 昭和-平成時代の洋画家。
大正8年3月13日生まれ。中村貞以(ていい),吉原治良(じろう)に師事。昭和27年フランスにわたり,以来パリで制作。40年サンパウロ-ビエンナーレで国際最優秀画家賞。41年芸術選奨。力づよい抽象的作風で知られる。版画でも受賞多数。平成8年5月14日死去。77歳。兵庫県出身。大阪美術学校中退。本名は貞三。作品に「朝のオートルート」など。

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