荻須高徳(読み)オギスタカノリ

デジタル大辞泉 「荻須高徳」の意味・読み・例文・類語

おぎす‐たかのり〔をぎす‐〕【荻須高徳】

[1901~1986]洋画家愛知の生まれ。フランス留学佐伯祐三師事し、ユトリロ的な画風パリ風景を描いた。帰国後、新制作協会会員となるが、再びパリに戻り、サロン‐ド‐メに毎年招待出品文化勲章受章。

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精選版 日本国語大辞典 「荻須高徳」の意味・読み・例文・類語

おぎす‐たかのり【荻須高徳】

洋画家。佐伯祐三に師事し、ユトリロ的な画風でパリの風景を描いた。明治三四~昭和六一年(一九〇一‐八六

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荻須高徳」の意味・わかりやすい解説

荻須高徳
おぎすたかのり

[生]1901.11.30. 愛知,稲沢
[没]1986.10.14. パリ
洋画家。川端画学校藤島武二の教えを受けたあと,1927年東京美術学校 (現・東京芸術大学) を卒業。すぐにフランスに留学し,佐伯祐三らとともに学び,ユトリロの影響を受けてパリの古い町並みを描いた。 28年サロン・ドートンヌに初入選,31年にはパリのカティア・グラノワ画廊で個展を開いた。サロン・デ・アンデパンダンの会員としても活躍したが,40年第2次世界大戦勃発のために帰国。戦後 48年フランスに戻り,パリで一生を終えた。パリでは多くの友人を得,日仏両国の文化の橋渡し役としても尽力したため,56年フランス政府からレジョン・ド・ヌール勲章を授与された。 78年にはパリ在住 50年を記念してパリ市主催で「オギス展」が開催された。 81年文化功労者。 83年故郷愛知県稲沢市に市立荻須記念美術館を開館。 86年文化勲章が追贈された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荻須高徳」の意味・わかりやすい解説

荻須高徳
おぎすたかのり
(1901―1986)

洋画家。愛知県生まれ。川端画学校に学び、1927年(昭和2)東京美術学校西洋画科を卒業してフランスへ留学する。佐伯祐三(さえきゆうぞう)に師事。31年からサロン・ドートンヌ(のち会員となる)、サロン・デ・チュイルリー、サロン・デ・ザンデパンダンに出品を始める。各地に制作旅行し、個展を開き、フランス政府に作品を買い上げられる。40年パリ陥落後に帰国し、新制作派協会の会員となり、滞欧作を特陳。48年(昭和23)、第二次世界大戦後初めて日本人画家としてフランスに再入国し、翌年モナコ賞展で大賞を受ける。サロン・ド・メに毎年招待出品。53年ポピュリスト絵画賞、翌年毎日美術賞(特別賞)、56年レジオン・ドヌール勲章。パリやベネチアなどの風景画で知られ、81年文化功労者、86年文化勲章追贈。

[小倉忠夫]

『『画集荻須高徳』(1981・講談社)』

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百科事典マイペディア 「荻須高徳」の意味・わかりやすい解説

荻須高徳【おぎすたかのり】

洋画家。愛知県生れ。1927年東京美術学校卒業と同時に渡仏均衡のとれた明快な色彩堅牢マチエールでパリの街景を描いた。サロン・ドートンヌなどに出品するとともに個展を開き,1936年サロン・ドートンヌ会員。1941年帰国,1948年再渡仏,フランスを中心に国際的に活躍した。1986年文化勲章(追贈)。
→関連項目名古屋市美術館山口長男

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荻須高徳」の解説

荻須高徳 おぎす-たかのり

1901-1986 大正-昭和時代の洋画家。
明治34年11月30日生まれ。川端画学校で藤島武二にまなび,東京美術学校(現東京芸大)卒業後,フランスにわたる。サロン-ドートンヌ会員。昭和23年ふたたびフランスにわたり,パリを中心に制作活動をおこなった。昭和61年10月14日パリで死去。84歳。没後に文化勲章。愛知県出身。代表作に「プラス・サンタンドレ」「街角」など。

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