荒牧村(読み)あらまきむら

日本歴史地名大系 「荒牧村」の解説

荒牧村
あらまきむら

[現在地名]伊丹市荒牧一―七丁目・荒牧・荻野おぎの七―八丁目・荻野

鴻池こうのいけ村の北に位置し、村の北端を有馬ありま街道が通る。荒蒔村とも(慶長国絵図など)。古代の牧があったとする説もある。川辺かわべ北条の条里地割が残りさんつぼつぼなどの小字がある。応永二六年(一四一九)一一月の上月吉景譲状并置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残り三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝領された。この年吉景は地頭職と同地三分の二を子息景久に譲っている。文正元年(一四六六)閏二月有馬温泉(現神市北区)の帰途、京都相国しようこく寺蔭涼軒主で播磨上月氏出身の季瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。

荒牧村
あらまきむら

[現在地名]清里村荒牧

北は櫛池くしいけ川、東は標高約二三二メートルの白看板城砦、南は蟹沢がんざわの深い谷、西は岡嶺おかみね丘陵に囲まれる。観応二年(一三五一)八月一三日の上杉憲顕寄進状(居多神社文書)に、憲顕が「荒蒔保々司分」を居多こた神社(現上越市)に寄進したことがみえる。寛永二年(一六二五)知行宛行状(湯浅家文書)に「武士郷新牧村」とみえ、同村内六五石が湯浅市兵衛に宛行われている。正保国絵図に高一〇石余と記される。天和三年郷帳によれば高四四六石九斗余、うち山高三石五斗・漆高五斗二升。

明治四四年(一九一一)八社権現・十二社を菅原すがはらの菅原神社へ合祀。浄土真宗本願寺派福浄ふくじよう寺は初め真言宗で春日山かすがやま(現上越市)近くにあったが信州へ追われ、のち東頸城郡伏野ぶすの(現安塚町)などを経て現在地へ移ったという。

荒牧村
あらまきむら

[現在地名]七城町荒牧

寺町てらまち村の南西、迫間はざま川右岸に位置する。南は迫間川に画され、対岸西郷さいごう村。同川左岸の字向田むかえだは飛地のように荒牧村に属する。字向田に南接する字名に西郷村古川ふるかわ高田たかた村の古川があり、迫間川の旧流路が向田よりも南の字古川付近を流れていたことが知られる。天正一七年(一五八九)検地帳に田六九町五反九畝余・畠一二町六反五畝余、分米九四九石三斗余とあり、名請人六、屋敷数四。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田七〇町七反九畝余・畠一一町七反八畝余、分米九四九石三斗余、名請人六六、屋敷数四。このうち無屋敷名請人が六四人みられ、その背景として入作が隣接村からのみでなく、岡田おかだ村・水次みつぎ村、隈府わいふ(現菊池市)など一一ヵ所に及んでいたことが指摘されている。

荒牧村
あらまきむら

[現在地名]前橋市荒牧町

北東は日輪寺にちりんじ村、南東は青柳あおやぎ村、南は上小出かみこいで村、西は古利根川の河原を挟み群馬郡川原島かわはらしま新田。古くは荒牧は利根川べりにあり、「延喜式」左右馬寮にある有馬島牧(現渋川市)の新しい牧場にあたるといわれる。「源平盛衰記」巻四六によれば、伊勢国住人江(伊勢)三郎義盛が「上野国荒蒔郷に住ける時」に、源義経が名前を隠して滞在し、その一の郎党となったと記されるが、「荒蒔郷」がこの地をさすかは不明。

荒牧村
あらまきむら

[現在地名]竹田市飛田川ひだがわ

稲葉いなば川中流南岸にあり、西は坂折さかおり村。正保郷帳では荒巻村と記され、飛田郷に属し、田方七一石余・畑方一〇石余。弘化物成帳では君ヶ園組のうち、村位は中、免八ツ五分、田八一石余(七町九反余)・畑七石余(一町四反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はほとんどなく、開畑五斗余(九反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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