茨木長隆(読み)いばらぎながたか

改訂新版 世界大百科事典 「茨木長隆」の意味・わかりやすい解説

茨木長隆 (いばらぎながたか)

戦国期の武将生没年不詳。摂津国人茨木氏の出身。1527年(大永7)桂川の戦で細川晴元が畿内の実権を握ると,その帷幕(いばく)に参じて奉行人に登用され,晴元政権の畿内支配における中心的役割を果たすことになる。その出自から,畿内国衆の立場を代弁し,彼自身も春日社領摂津垂水西牧(たるみにしのまき)の給分を保有するなど,在京の権門と摂津国人との妥協はかり,荘園的収取機構を温存する政策を取った。このため急進派の阿波国衆三好元長,木沢長政らをつぎつぎに政権から追放,32年(天文1)の一向一揆弾圧にも軍勢動員の中心にあった。27年から49年(天文18)にわたる晴元政権の全期間を通じて活躍したが,急進派の摂津守護代三好長慶台頭を抑えることができず,48年8月,摂津最有力の国人池田氏が長慶方に荷担したため晴元政権は危機に陥り,翌年6月の江口(現,大阪市東淀川区)の戦で没落,長慶が京都に進出して,茨木長隆はその政治生命を終えた。
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朝日日本歴史人物事典 「茨木長隆」の解説

茨木長隆

生年:生没年不詳
戦国時代の武将。摂津国人茨木氏の出身。大永7(1527)年桂川合戦の直後,細川晴元に帰参してその参謀となり,右筆を兼ねて若年の晴元を補佐した。天文1(1532)年に三好元長を倒し,次いで蜂起した一向一揆を翌年にかけて法華一揆の力で牽制,同3年に晴元が入京にこぎつけたのは長隆の功績と推定される。しかし摂津半国守護代三好長慶の台頭によって押され気味となり,同18年6月の江口合戦で晴元が長慶に敗れると没落した。

(今谷明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「茨木長隆」の解説

茨木長隆 いばらき-ながたか

?-? 戦国時代の武将。
摂津茨木(大阪府)の国人。大永(たいえい)7年細川晴元につかえ,奉行人から京都代官となる。享禄(きょうろく)4年管領(かんれい)細川高国を,5年三好元長をほろぼす。天文(てんぶん)5年(1536)京都の法華一揆(ほっけいっき)を制圧し,京都での晴元の実権を確立させる。18年晴元が三好長慶(ながよし)に追放されたのち没落した。

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