英彦山
ひこさん
福岡県田川郡添田(そえだ)町と大分県中津(なかつ)市との境にある火山で、標高1199メートル。おもに安山岩からなる耶馬(やば)渓溶岩台地の一部が開析されてできた英彦山火山群の主峰で、山頂部は北岳、中岳、南岳の三峰からなり、中岳に英彦山神宮上宮がある。古くから大和(やまと)の大峰(おおみね)山、出羽(でわ)の羽黒(はぐろ)山と並ぶ山岳信仰の霊山として知られ、山伏の修験(しゅげん)場として盛時には山麓(さんろく)に3800余の坊舎が建ち並んでいたが、明治以降は神仏分離で衰退し、坊舎跡の多くは水田にかわった。国指定重要文化財の奉幣殿(ほうへいでん)、銅(かね)の鳥居、雪舟の作といわれ国の名勝に指定されている旧亀石坊(かめいしぼう)庭園などの文化財に富む一方、動植物の宝庫で、樹齢1000年を超える国指定天然記念物の鬼スギをはじめ、ブナの原生林やスギの美林に覆われて、耶馬日田(ひた)英彦山国定公園の指定を受けており、山頂からの眺望は雄大である。北東部にある鷹(たか)ノ巣山はビュート火山の奇峰で国指定天然記念物となっている。国民宿舎、青年の家、キャンプ場などの設備があり、一年を通じて北九州の手軽なレクリエーション地として行楽、参拝客が多い。国道500号が北麓を通り、九州旅客鉄道日田彦山(ひたひこさん)線彦山駅より神社下までバスで20分、山頂まで徒歩で2時間半ほどかかる。
[石黒正紀]
『田川郷土研究会編『英彦山』増補版(1978・葦書房)』
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英彦山
ひこさん
福岡県南東部の添田町と大分県中津市との境にある山。標高 1199m。「えいひこさん」「えひこさん」とも読む。新第三紀層の安山岩質の溶岩台地が開析されて形成された山で,北岳,中岳,南岳の3峰からなる。平安時代以降は山伏の修験場として繁栄した。中岳に英彦山神宮がある。ブナ,モミ,ツガなどの原生林に覆われ,国の重要文化財の銅鳥居と奉幣殿,国の名勝の旧亀石坊庭園,国指定天然記念物の鬼スギなどがあり,冬季の霧氷も有名。耶馬日田英彦山国定公園に属する。
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英彦山【ひこさん】
福岡・大分県境にそびえる山。標高1199m。耶馬渓火山の溶岩台地が開析されてできたメーサで,頂部は3峰に分かれ,中岳に英彦山神社がある。古代には日子山ともみえ,修験道の道場として知られる。その信仰圏は九州一円に及んだ。鬼スギ(天然記念物)などスギの巨木やモミ・ツガの原始林におおわれ,耶馬日田英彦山国定公園に属する。2005年10月に英彦山スロープカーが開業。
→関連項目犀川[町]|修験道|添田[町]|山国[町]|山国川
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デジタル大辞泉
「英彦山」の意味・読み・例文・類語
ひこ‐さん【英彦山/彦山】
福岡・大分両県にまたがる火山。標高1200メートル。奇岩で知られ、北・中・南岳の三峰からなり、中岳に英彦山神宮がある。えひこさん。
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英彦山
(福岡県田川郡添田町・大分県中津市)
「三彦山」指定の観光名所。
英彦山
(福岡県田川郡添田町)
「日本百景」指定の観光名所。
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ひこさん【英彦山】
福岡県の南東部田川郡から大分県の北西部下毛郡にかけて位置する英彦山地の主峰で,標高1200m。主として新第三紀後期~第四紀の火山岩からなり,標高約800mまでは筑紫溶岩で,その上に輝石安山岩をのせている。輝石安山岩が浸食に対する抵抗が強いため,山頂部はビュート地形で3峰に分かれ,中岳には英彦山神宮が鎮座する。古くから山伏の修験道場として栄えたが,明治維新後の神仏分離により衰微し,現在では英彦山神宮の門前町的な小集落がみられるだけである。
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英彦山
ひこさん
主として添田町東部に位置する南北約三・五キロ、東西約五キロの山塊であるが、その主峰群の尾根は福岡県と大分県の県境(一部境界未定)をなし、東側部分は大分県下毛郡山国町に位置する。主峰群は南岳、中岳(上宮岳)、北岳を連ねた尾根で、最高地点は南岳の標高約一二〇〇メートルで、中岳および北岳も標高一一九〇メートル前後に達する。主峰群の北側中腹は豊前坊などが位置する標高七五〇―八〇〇メートルのなだらかな高原状地形を呈し、主峰群西側中腹の英彦山神宮銅鳥居付近も標高五〇〇―六五〇メートルの溶岩台地状の高原である。
英彦山
ひこさん
山国町と福岡県田川郡添田町との境界にある。彦山とも書く。かつての豊前・豊後・筑前三国にまたがる英彦山山地の主峰で、標高一一九九・六メートル。北部九州随一の高山であり、早くから霊山として信仰の対象となっていた。のち山域には洞窟などの修験の道場が営まれ、遅くとも平安時代には彦山権現社・霊仙寺(現添田町英彦山神宮)を中心とした一山組織として整備される。中世には求菩提山、檜原山(正平寺、現耶馬渓町)など豊前六峰とよばれた傘下の諸山を足掛りとして当山の修験は九州九国二島に勢力を拡大し、多数の末寺・末山を擁して君臨した。近世には京都聖護院との本末争論に勝利して別本山を認められる一方、末派修験が各地に彦山講を普及させ、幕末期には山麓に宿坊二五〇、檀家は九州全土で四二万戸を数えたという。山頂は中岳・北岳・南岳の三峰からなり、三角点は南岳に、英彦山神宮の上宮は中岳にあり、西方中腹の添田町英彦山には同宮奉幣殿がある。主要部は新第三紀後期から第四紀の火山活動で噴出・堆積した筑紫溶岩層と耶馬渓溶岩とからなる。山体は大きく、多くの支脈があり、東側は山国川、南側は筑後川支流花月川の水源地帯となっている。全山植物の宝庫であり、耶馬日田英彦山国定公園に指定される。なお古くは日子山と記したといい、のち彦山の用字がもっぱらであったが、享保一四年(一七二九)霊元上皇に英の尊号を受け、以後英彦山と記すようになった。
〔草創と発展〕
年代に疑問がもたれるが、建保元年(一二一三)に撰述されたという縁起書「彦山流記」(以下、流記と略称)によれば、当山は継体天皇二五年に藤原恒雄が開いたという。ところが元亀三年(一五七二)の「鎮西彦山縁起」(以下、元亀縁起と略称)によれば、開山は魏国の僧善正で、豊後国日田郡の狩人藤原恒雄が善正に帰依、出家して忍辱と号し、霊仙寺を開き、上宮三社を建立したという。ところで両縁起がともに当山開創に深くかかわった人物とする藤原恒雄については、朝鮮神話で始祖神とされる檀君の父桓雄(帝釈桓因の子)が投影されているとの見方もある。現在英彦山神宮は添田町にあるが、同地は古代には豊前田河郡に属した。郡内の香春郷は「豊前国風土記」では新羅の国神の渡来した地とされるなど(同風土記逸文・「宇佐託宣集」)、古くから朝鮮半島とは密接な関係にあった。六世紀の新羅では弥勒信仰と結び付いた花郎(道)が隆盛であり、当山でも弥勒信仰の強い影響がうかがえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報