若乃花幹士(読み)ワカノハナカンジ

デジタル大辞泉 「若乃花幹士」の意味・読み・例文・類語

わかのはな‐かんじ【若乃花幹士】

力士
初代)[1928~2010]第45代横綱。青森県出身。本名、花田勝治。呼び戻しを得意とし、好敵手栃錦とちにしきと「栃若時代」を築いた。優勝10回。引退後、年寄二子山。日本相撲協会理事長、相撲博物館館長も務めた。→第44代横綱栃錦 →第46代横綱朝潮
(2代)[1953~2022]第56代横綱。青森県出身。本名、下山勝則。昭和53年(1978)横綱昇進を機に若三杉から2代目若乃花幹士にしこ名を改めた。優勝4回。引退後、年寄間垣。→第55代横綱北の湖 →第57代横綱三重ノ海

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「若乃花幹士」の意味・わかりやすい解説

若乃花幹士
わかのはなかんじ
(1928―2010)

第45代横綱。昭和3年3月16日青森県弘前(ひろさき)市に生まれる。本名花田勝治(かつじ)。小学1年生のとき生家が破産し、一家は北海道室蘭(むろらん)市に移住した。少年のころから港湾労働に従事し、生計を助けた。1946年(昭和21)大ノ海(1916―1981。後の花籠(はなかご))にみいだされて二所ノ関部屋に入門、1950年に入幕した。のち花籠部屋に転じ、1958年1月に横綱免許を得た。全盛期は177センチメートル、116キログラムと増量したが、横綱としては歴代中もっとも軽量であった。好敵手栃錦(とちにしき)と多彩な土俵をみせ、「栃若時代」を築き、人気を集めた。優勝回数10回(全勝1回)、入幕後546勝235敗4引分けの記録を残した。1962年引退して二子山(ふたごやま)部屋(後の貴乃花部屋)を創立。大関貴ノ花(たかのはな)(1950―2005。後の二子山親方実弟)、横綱2代目若乃花(1953―2022。後の間垣(まがき)親方)、横綱隆の里(1952―2011。後の鳴戸(なると)親方)、大関若嶋津(1957― 。後の松ヶ根(まつがね)親方)らを育てた。1988~1992年(平成4)日本相撲(すもう)協会理事長。

[向坂松彦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「若乃花幹士」の意味・わかりやすい解説

若乃花幹士
わかのはなかんじ

[生]1928.3.16. 青森,弘前
[没]2010.9.1. 東京,新宿
第45代横綱。本名花田勝治。1946年11月に初土俵を踏み,1950年1月に新入幕。軽量ながら強靭な足腰でがっぷりと組むとびくともしなかった。正攻法の四つ相撲を通し,左四つの右上手投げ,右四つの豪快な呼び戻しはファンを熱狂させ,「土俵の鬼」の異名をとった。1958年1月場所後に横綱に昇進,ライバルの横綱栃錦(→栃錦清隆)とともに「栃若時代」を築いた。1962年5月引退,優勝 10回のうち全勝 1回。花籠部屋から独立して二子山部屋を創設し,2代目若乃花,隆の里の 2横綱,実弟の貴ノ花,若嶋津の 2大関ら多くの関取を育てた。貴ノ花の息子である 3代目若乃花,貴乃花の兄弟横綱の伯父。1988年春日野清隆理事長の勇退をうけて日本相撲協会理事長に就任,1992年に勇退して相談役となる。1993年二子山部屋と藤島部屋とを合併し,年寄名も兄弟で交換した。1993年3月に相撲協会を定年退職したのち相撲博物館館長に就任,1996年まで務めた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「若乃花幹士」の意味・わかりやすい解説

若乃花幹士【わかのはなかんじ】

力士。本名花田勝治。青森県生れ。二所ノ関部屋,花籠部屋所属。1946年初土俵,1950年入幕,1958年第45代横綱。優勝10回。栃錦(栃錦清隆)とともに〈栃若時代〉を築き,軽量ながら強靭(きょうじん)な足腰と気迫にあふれる相撲で〈土俵の鬼〉と称された。1962年引退後は二子山親方として2代目若乃花,弟貴ノ花らの力士を育て,日本相撲協会理事長を務めた。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android