日本大百科全書(ニッポニカ) 「芦原義信」の意味・わかりやすい解説
芦原義信
あしはらよしのぶ
(1918―2003)
建築家。東京に生まれる。1942年(昭和17)に東京大学工学部建築学科を卒業し、第二次世界大戦中の海軍技術士官を経て、戦後、現代建築研究所で設計実務に就く。1952年(昭和27)にハーバード大学大学院に留学し、1953年に修了。その後、マルセル・ブロイヤーの事務所で働き1954年に帰国。1956年に芦原義信建築設計研究所を開設し、1959年に法政大学教授となる。1960年にロックフェラー奨学金を受けニューヨークに滞在し、それまでの研究成果をまとめ1961年に工学博士の学位を受ける。
留学から帰国して間もない時期の中央公論ビル(1956、東京都。日本建築学会賞)をはじめとして、正統的なモダニズム建築の作風をとる。また、日本の同世代の建築家が強い関心を示した「モジュール」「ビルディング・エレメント」などの建築生産側からの方法論や、メタボリズムなどのアバンギャルド的運動からは距離を置く姿勢を保ち、一貫して人の知覚や行動心理に裏づけられた建築の実用性を重視した設計プロセスをとる。
あわせて、芦原はゲシュタルト心理学の「図/地」概念を応用した独自の設計理論を展開し、これにもとづくデザイン手法を、駒沢公園体育館・管制塔(1964、東京都。日本建築学会特別賞)、ソニービル(1966、東京都)など多くの作品に応用した。モントリオール万博日本館(1968)の建築では、日本の伝統美を結晶させた作品として世界の注目を集めた。主な作品としてほかに、八代市厚生会館(1962、熊本県)、香川県立図書館(1963)、武蔵野美術大学(1964~1972、東京都)、第一勧業銀行本店(1981、東京都)、金沢市文化ホール(1982)、国立歴史民俗博物館(1983、千葉県)、東京芸術劇場(1990)などがある。
著作も数多く、学位論文をもとにした『外部空間の構成』(1962)は、オーストリアの建築家カミロ・ジッテCamillo Sitte(1843―1903)以来の欧米の都市空間構成論をふまえた外部空間構成論であり、日本の建築界に都市空間論が隆盛となる契機の一つとなった。『街並みの美学』(1979)は、建築とその外部空間の関係を街並みの規模にまで拡大したもので、従来は平面的、動線的、機能論的に論じられてきた都市の設計に、初めて空間造形、建築と環境との論理的空間論を展開した。同書は、一般市民にもわかりやすい論理と語法で語られ、その後の日本の都市景観デザイン分野に大きな影響を与えた。
主な著作としてほかに『外部空間の設計』(1975)、『続 街並みの美学』(1983)、『隠れた秩序』(1986)、『秩序への模索』(1995)などがある。
1964年から武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授、1970年から東京大学教授となり、1979年に退官した後は、ふたたび武蔵野美術大学で教鞭をとる。1985~1986年には日本建築学会会長を務める。1988年より日本芸術院会員。
日本建築学会大賞(1990)をはじめ数多くの建築賞を受賞しているほか、1988年には文化勲章を受章した。
[秋元 馨]
『『外部空間の構成――建築から都市へ』(1962・彰国社)』▽『『外部空間の設計』(1975・彰国社)』▽『『秩序への模索――これからの都市・建築へ向って』(1995・丸善)』▽『『街並みの美学』『続 街並みの美学』(岩波現代文庫)』▽『『隠れた秩序――二十一世紀の都市に向って』(中公文庫)』