芝原村(読み)しばはらむら

日本歴史地名大系 「芝原村」の解説

芝原村
しばはらむら

[現在地名]徳島市国府町芝原こくふちようしばはら国府町竜王こくふちようりゆうおう

西黒田にしくろだ村の南西にあり、東は川原田かわはらだ村、南は桜間さくらま村と名西みようざい郡桜間村(現石井町)、西は同郡高畠たかばたけ(現同上)。南は飯尾いのお川に臨む水害常襲地。現神山かみやま勧善かんぜん寺所蔵の大般若経巻四二の奥書に「于時嘉慶二年三月晦日 阿州於芝原種連寺書写右筆善秀」、同巻四五奥書に「嘉慶二年中夏十五日書写了、然日本第一悪筆、芝原保種蓮寺住僧長恵、正年廿九歳」とあることから、当地にあった種蓮しゆれん寺の住僧長恵らが嘉慶二年(一三八八)に大般若経の書写に加わったことが知られる。種蓮寺は現存せず、詳細な所在地や沿革などは不明。また文明一八年(一四八六)七月二二日の旦那売券(熊野那智大社文書)に「阿波国しは原之せいゆうと申先達」とみえる。当地の熊野先達である「せいゆう」の門弟引旦越が五貫文で禅慶房たい千代女に譲られており、当地に拠点を置いた熊野先達の活動が知られる。

芝原村
しばはらむら

[現在地名]大津市上田上芝原町かみたなかみしばはらちよう

大戸だいど川の北岸側にあり、東海道から甲賀郡へ抜ける田上道が通る。中世は田上庄のうち田上牧たなかみまき庄に属した。当地を本貫とする中野氏は佐々木氏の下で活躍、京都北野社からは同社領田上中庄の代官に補任されている。文明期(一四六九―八七)中野宗永・宗成父子の帰依により建立された曹洞宗法蔵禅ほうぞうぜん寺は、牧から中野なかのにかけて福王寺・蔵密庵など数多くの坊舎を並べていたという(輿地志略)。江戸期を通じて膳所藩領。寛永石高帳に村名がみえ、高一七三石余。慶安高辻帳では田一一〇石余・畑五石余、永荒五八石余、小物成米三石。旧高旧領取調帳では二三六石余。正徳二年(一七一二)より大津宿助郷(「京都御役所向大概覚書」ほか)。膳所藩には八月・九月青花運上銀二匁二分五厘、一二月には牧六ヵ村で諸山運上銀二匁・同二一五匁を納めた(膳所藩明細帳)

芝原村
しばはらむら

[現在地名]長南町芝原

給田きゆうでん村の東方に位置し、一宮いちのみや川支流の埴生はぶ川が流れる。「しばら」とも。西に上芝原、東に下芝原の集落があり、中里なかざと瓜房谷うりぼうやついちたきなどの地名がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六六六石。慶長二年(一五九七)九月二九日の埴生郡柴原村枝検地帳(三冊、写、江沢家文書)があり、一筆の記載形式は耕地の縦横の間数・品等・反別・分付主・作人となっている。正保国絵図では柴原として高六六六石。元禄郷帳では高八九八石余。

芝原村
しばはらむら

[現在地名]八日市市芝原町・東今崎町ひがしいまさきちよう聖和町せいわちよう沖野おきの二―四丁目

今堀いまぼり村・蛇溝へびみぞ村の東にある。近世中期までは柴原西しばはらにし村と称し、単に西村とよばれることもあった。近世みなみ二俣ふたまたの二ヵ村とともに柴原郷を構成。応安五年(一三七二)一二月二九日の孫三郎等連署畠売券(今堀日吉神社文書)に「柴原西村又五郎殿」とみえる。

寛永石高帳には芝原村五四一石余とあり、慶安二年書上では内訳は田三九六石余・畑屋敷一二五石余・永荒川欠け二〇石余。延宝七年(一六七九)検地では村高六四三石余、田三三町六反余・畑三六町一反余・屋敷二町三反余(宝暦二年「村明細帳」芝原町共有文書)。天明六年(一七八六)に山城淀藩領となる以前はおおむね幕府領で、元禄一一年(一六九八)より延享三年(一七四六)の間旗本板倉領となった。

芝原村
しばはらむら

[現在地名]宇佐市芝原

畑田はたけだ村の南にあり、東と南は上田うえだ村、西は葛原くずわら村。長享元年(一四八七)一〇月二〇日の重正段銭請取注文案(永弘文書)に文明一六年(一四八四)分として「芝原名一丁五反、此内八反半、反銭沙汰」とあり、天正一五年(一五八七)六月三日の宮成公基所領坪付(宮成文書)では辛島からしま郷分の「当時令進止村」の一として「芝原」がみえる。近世の領主の変遷は川部かわべ村に同じ。慶長八年(一六〇三)平田ひらた井手公事に関する庄屋中天罰起請文(四日市村年代記)に「芝原村木工之丞」、同年代記の同一六年の井手公事に関する記載にも「芝原村喜介」などの名がみえる。

芝原村
しばはらむら

[現在地名]姫路市豊沢町とよざわちよう豊沢

飾東しきとう郡に所属。姫路城南の外堀の南に位置し、西は南畝のうねん町。「村翁夜話集」に弘治三年(一五五七)のこととして「御社領芝原御庄政所職事、(中略)南都上使美濃良政」、永禄元年(一五五八)のこととして「春日御社領芝原庄政所職事」との記述があり、戦国時代において芝原庄の呼称があり、奈良春日社領であったともいわれる。「播磨鑑」によると、当地の春日神社八木やぎ春日神社ともいわれ、寛和二年(九八六)巨智延昌の勧請で、祭の日には必ず奈良春日社の神鹿がやってきたと伝える。天文二年(一五三三)社家日下部小門太夫が英保次郎五郎との境相論に敗れ、春日神社は衰えたという。天正三年(一五七五)の近村めぐり一歩記(智恵袋)に芝原村は家数五〇とある。

芝原村
しばはらむら

[現在地名]北方町芝原

加茂かも村の東に位置し、根尾ねお川緩傾扇状地平野に立地。集落は南部を横断する東山道の北側にかたまっていた。柴原村とも書く。慶長郷帳に村名がみえ、高二八九石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では奥平忠隆(加納藩)領。正保郷帳では田二一九石余・畑六九石余。その後幕府領となり、宝暦五年(一七五五)から大垣藩預。天保九年(一八三八)の村明細帳によれば、元禄六年(一六九三)の内検で高三〇一石余、田二六六石余・反別二一町一反余、畑屋敷三四石余・反別四町七反余と定まった。

芝原村
しばわらむら

[現在地名]甲佐町芝原

北は御船原みふねばる台地のじん(現御船町)、西は吉田よしだ村、東南は山出やまいで村と接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は甲佐手永に属した。「国誌」に「五反ト云小村アリ」とあり、宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数四〇・男一三二・女一一五、駒馬四・駄馬三〇、本高三一八石二斗余、田一五町七反三畝余・畑一〇町九反二畝余、永荒田一畝余、新地田畑一二町一反九畝余、諸開(上畝物・定米畝物・請藪)一町二反七畝余。

芝原村
しばはらむら

[現在地名]一宮市千秋ちあき芝原しばはら

加納馬場かのうばば村の西南にあり、村の中央街道沿いに人家が集中していた(天保村絵図)。天正末頃は織田信雄の家臣岩井三郎四郎の知行地があった(織田信雄分限帳)。概高一二〇石余はすべて蔵入地。畑地一三町九畝余。立百姓が七戸あったが細民が多く、加納馬場村出小作をした。

芝原村
しばはらむら

[現在地名]武生市芝原町・南芝原みなみしばはら

家久いえひさ村と本保ほんぼ村とに挟まれた村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高五四〇・二三石とある。正保郷帳によると、田方五一五石余・畠方二四石余。江戸時代前期は福井藩領で、後期には村高五四〇・二三石のうち四二二・七二四石が酒井外記・松平主馬ら藩士五人の知行所(文政六年「給人地方渡名寄帳」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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