船越村(読み)ふなこしむら

日本歴史地名大系 「船越村」の解説

船越村
ふなこしむら

[現在地名]男鹿市船越

男鹿半島の南頸部、八郎潟と日本海を結ぶ船越水道の西に位置し、東対岸は天王てんのう(現南秋田郡天王町)、南は日本海。男鹿街道に沿い、海岸に平行して東西に二列の砂丘が続く。海岸寄りの第一砂丘は、西の脇本わきもと村から続き、標高約一〇メートル、やや低い第二砂丘上に集落があり、砂丘と砂丘の間の低湿地には田地が開かれている。

船越村はかつて海岸寄りの砂丘の北、一向いつこうにあったと伝えられる。嘉永期(一八四八―五四)の「絹篩」に「今の松山と云所に居す、俗に古屋敷と云。其頃家数九十六軒有りと云(中略)古屋敷には井戸の跡あり。或は瀬戸類土中より掘出すこと度々なり」とあり、元亀年間(一五七〇―七三)現在の地に移ったという。一向には一向井戸跡群があり、井戸遺構七が発見され、木器や黄瀬戸・青磁などの陶磁器も採集されている。いずれも室町末期のものと推定され、赤神山大権現縁起(男鹿の島風)に応安五年(一三七二)「舟越の頼季、観音堂を建立して三十三躰の尊影を営し奉る」とある人物は安東氏の一族であろう。「奥羽永慶軍記」に天正一六年(一五八八)の湊騒動の際、檜山方の脇本の軍勢を攻めるに「船越の在家に火をかけ」とあり、在家の中に「船越猪兵衛」の名がみえる。

天正一九年の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「もゝ川村 舟越村」として五三三石五斗五合とある。文禄三年(一五九四)の小鹿嶋之内知行方帳(秋田藩家蔵文書)、慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に四六石六斗一升七合とある。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]安芸区船越町

畑賀はたか村の西南に位置し、南部は海に面する。北は標高二〇〇メートル前後の山を背負い、東部を花都はなと川、西部を的場まとば川が南流してそれぞれ小さな河谷と扇状地を形成。正応二年(一二八九)正月二三日付沙弥某譲状(田所文書)に「船越村一丁一反」とみえ、田五反が大迫おおさこに、畠五反が見乃古志みのこしより北にある東浦ひがしうら・西浦に、塩浜一反がほりより南の東浦にあったとする。大迫の名は的場川上流の谷に残り、谷奥には田所氏が府中ふちゆう(現安芸郡府中町)水分みくまり神社を分祀したと思われる水分神社が鎮座する。見乃古志も村西端の丘陵南縁に水越みのこしの地名があり、この付近が当時の海岸線で塩浜があったことが知られる。

南北朝から室町前期頃に東から阿曾沼氏が進出する。大内氏と銀山かなやま(跡地は現安佐南区)の城主武田氏とが文正元年(一四六六)に船越で衝突した(年欠閏二月一日付武田信賢感状写「閥閲録」所収中村藤左衛門家文書)。その後阿曾沼氏は大永三年(一五二三)尼子・武田方に降ったため、同七年陶興房の率いる大内軍が船越に進軍し、阿曾沼氏本拠鳥籠山とこのやま城の「手宛」として、船越と海田かいた(現安芸郡海田町)の境にある日浦山ひうらやま城を攻略している(年欠三月一九日付「弥富依重軍忠状」今仁文書)

船越村
ふなこしむら

[現在地名]諫早市船越町・幸町さいわいまち栄町さかえまち本町ほんまち八坂町やさかまち上町かみまち仲沖町なかおきちよう旭町あさひまち厚生町こうせいちよう高城町たかしろちよう原口町はらぐちまち宇都町うづまち立石町たていしまち西郷町にしごうまちなど

現市域の南部、諫早市中の南東に位置し、南部を半造はんぞう川が流れる。古代、西海道の船越駅が置かれた地に比定され、中世に「町坪」「南大坪」などとみえることから(元徳二年九月一二日「安富寂猷本物返田地等売券」深江文書)、付近に条里地割が施行されていたと想定される。中世は伊佐早いさはや庄のうちとして船越村などとみえる。慶長国絵図では埋津うめづ付近まで海が入り込む入江となっている。近世は諫早郷に属し、村域に諫早市中が形成されていた。諫早領では南目にあたる。肥前佐賀藩親類同格の諫早家領で、正保国絵図に「船越村」とあり、高五四〇石余。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)でも村名が記され、元禄国絵図では高五四一石余。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]田沼町船越

はた川中流域の段丘上に集落が形成され、東・西は山地。北は御神楽みかぐら村、東は都賀つが田名網たなあみ(現葛生町)、西は岩崎いわざき村、南は戸室とむろ村。元和四年(一六一八)の検地帳(三好郷土資料館蔵)によれば、反別二三町三反余、うち田四町四反余・畑一七町六反余、耕地面積の約八割を畑が占める。同三年当時の本百姓二一・門屋百姓一二(「日光御用割付」野城勝文書)。慶安郷帳では田二三五石余・畑九三一石余・役二九六石余、朽木稙綱領。延宝元年(一六七三)の本年貢は米一一石余・永一四四貫余(享保九年「本年貢米永書上」亀田喜代司文書)。慶安二年(一六四九)幕府領、寛文元年(一六六一)上野館林藩領となるが、天和二年(一六八二)から旗本根来・水野・大沢領などの七給(分郷配当帳)。元禄一一年(一六九八)根来知行分が旗本山内領となり、また水野知行分は文化年間(一八〇四―一八)幕府領を経て同一四年対馬厳原藩領となり、一大名六旗本の支配で幕末に至る。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]多古町船越

しま村の南、栗山くりやま川右岸に位置する。同川が多古橋たこばし川と合流する地点に突き出た半島状の丘陵上に集落がある。中世は千田ちだ庄に属し、南北朝期には千葉胤貞(千田氏)の一門が勢力を張ったが、その拠点となったのは当地の大島おおしま城であったと伝える。暦応四年(一三四一)一二月二〇日の日忍置文写(妙興寺文書)に「於下総国千田庄大嶋城、為末代記之」とみえ、当時上総鷲山じゆせん(現茂原市)の学僧日忍が同城内に滞在していたことが知られる。みねの寺とも称される南中の妙興みなみなかのみようこう寺は初めは同城中にあったが、その外護者は大島殿(千葉胤貞)であったとされる。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]鹿島台町船越

大松沢鹿島台おおまつざわかしまだい丘陵の東北端および鳴瀬なるせ(船越川)氾濫原の低地からなる小村。東および南は木間塚きまづか村、北の鳴瀬川対岸は遠田とおだふくふくろ(現南郷町)、西は平渡ひらわた村に接する。弘安四年(一二八一)一二月二八日の関東下知状(田代文書)に「可早以尼法名領知陸奥国弘永郷内船越村一期之後者宗清可令伝領事」とあり、文永八年(一二七一)八月日の亡父右馬允為清法師の譲状により尼某に譲られている。為清は紀氏で、伊豆国田代たしろ(現静岡県田方郡修善寺町)出身、和泉国大鳥おおとり(現大阪府堺市)を本拠地とする。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]大王町船越

志摩半島の東南端にあり、東の波切なきり村に接する。先土器時代の登茂山東麓ともやまとうろく遺跡をはじめ同山周辺には縄文・弥生時代の遺跡が多い。桐垣きりかき遺跡・次郎六郎じろうろくろう遺跡のほか五人畑ごにんはた堂の上どうのうえの古墳群がある。平城宮出土木簡に「志麻国英虞郡舩越郷」と記され、また天平神護二年(七六六)一〇月二〇日の木簡に「志摩国英虞郡船越郷」とある。船越なる地名の初出であるが、古くは志摩国英虞あご郡域に含まれた現度会わたらい南勢なんせい町にも船越がある。「建久三年皇太神宮年中行事」に「船越」、「神鳳鈔」に「東船越御厨」「榊御薗一丁、畠一丁」「南船越御厨」があげられている。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]溝口町船越

北東から東に流れを変える藤屋ふじや川下流左岸に位置し、東は福吉ふくよし村。舟越とも記す。村名は開村者舟越氏に由来するという(日野郡史)。拝領高は七八石余、本免は五ツ。米子荒尾氏の給地であった(給人所付帳)。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高九二石余、家数九・人数四六、牛一四、鑪一・鍛冶屋一に運上銀一二〇匁が課されていた。文政一三年(一八三〇)の高九〇石余、物成三五石余、米子御蔵へ納入すべき三歩一米は不明(在方諸事控)

船越村
ふなこしむら

[現在地名]南勢町船越

しよ浦の西、中津なかつ半島の頸部にある。西は内瀬ないぜ村、北は標高四〇二・一メートルの龍仙りゆうせん山。地名は「大日本地名辞書」に「凡古人船越を以て地峡に命名せる例諸方に多し」とある。船で越せそうなくびれの地というのであろう。「和名抄」志摩国英虞あご郡の「船越郷」の遺称地とされる。「神鳳鈔」には「南船越御厨元十七貫、近年七貫」とある。伊勢神宮領としての初見は建久三年(一一九二)の注進状(神宮雑書)である。「内宮年中神役下行記」(神宮文庫蔵)には「志摩国南船越 七貫、元ハ十七貫近年七貫」とある。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]志摩町船越

糸島半島南西部に突き出た小半島に位置し、東は久家くが村。砂洲上の同村境には松原があった。舟越とも記し、船越浦があった。古代・中世は観世音寺(現太宰府市)領の船越庄が成立した。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)によれば田一町九段余・畠一二町六段余。小早川時代の指出前之帳では御床みとこ村のうち。慶長七年(一六〇二)の検地高六七石余、うち大豆三三石余(慶長石高帳)。元禄元年(一六八八)の村位は下、田二町五反余・畠七町余、高六九石余。庄屋と弁指は兼務であった(「志摩郡御床触郡帳」鎌田家文書)

船越村
ふなこしむら

[現在地名]山田町船越

船越半島とその基部にあたる地域からなり、東・南・北の三方を海に囲まれ、西は織笠おりかさ村。東は断崖が続き、基部に近くはま・船越の二つの湊が並ぶ。北は重茂おもえ半島に対し、山田湾に向かって大浦おおうらの湊がある。当村を通り四十八坂しじゆうはつさかから吉里吉里きりきり(現上閉伊郡大槌町)に入る海寄りの道は浜街道の裏街道であるが、本街道以上の交通量があり、「三閉伊路程記」にも「舟越ハ町家作にてよき村也」と記されている。北畠顕成が寄居したという御所跡と、閉伊一族船越氏の館跡がある。慶長元年(一五九六)船越氏は宮古地方に替地をうけ移住(宝翰類聚)、跡地は蔵入地となった。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]清水市船越・船越町・西高町にしたかちよう大沢町おおさわちよう下町したちよう堂林どうばやし一―二丁目・船越東町ふなこしひがしちよう船越南町ふなこしみなみちよう船原ふなばら一―二丁目

南矢部みなみやべ村の北、有度山うどさん丘陵北麓に位置する。近世初期は四ヵ村新田と称し、慶長一四年(一六〇九)彦坂光正が南矢部・北矢部・今泉いまいずみ岡清水おかしみずの四ヵ村に「右之村あれ地之所、其方手柄次第成候ほどおこし可申候」(旧伴野家文書)と新田開発を命じたことに始まる。承応元年(一六五二)の四ヵ村新田の村高は三三七石余。元禄四年(一六九一)検地が実施され船越村として立村された。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]会津坂下町八日沢ようかざわ

東は旧みや(鶴沼川)を隔てて下政所しもまんどころ村、北は笊籬屋敷ざるやしき村、西は蛙田かえるだ村。村の南東を栗村くりむら堰が北流する。慶長一六年(一六一一)以前は塩川しおかわ(現塩川町)に至る道筋にあたり、宮川に渡船場があったための村名という(新編会津風土記)。とくに応永二六年(一四一九)から天文五年(一五三六)の間はこの川が阿賀川の本流であった。天正九年(一五八一)二月二九日の蘆名盛隆加判平田輔範売券(新編会津風土記)によれば、「右舟越之地五貫文之所」が栗村殿に売渡されている。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]南光町船越

宍粟郡に属し、河崎こうざき村の北、千種ちくさ川上流域の山間に位置。標高七二七メートルの船越山を中心に五〇〇―六〇〇メートル級の山地が連なる。北は宍粟郡下河野けごの村・七野ひつの(現千種町)、西は美作国吉野よしの海内みうち村・奥海おねみ(現佐用町)。慶長国絵図に舟越村とみえる。江戸期の領主の変遷は慶安二年(一六四九)までは林崎はやしさき村に、以後は漆野うるしの村に同じ。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]美山町船越

南は佐野さの村、西は出戸でと村、北は相戸あいど村に接し、東西の山の間に開けた山峡に集落や田畑がある。天保郷帳には舟越村とある。天正一七年(一五八九)の岩佐村検地帳(山田文書)に「ふなこし」とある。慶長郷帳は佐野四ヶ村と一括するが、そのうちの小物成之覚は武儀むぎ郡舟越村の山年貢や紙舟役を記している。初め幕府領で、元和五年(一六一九)尾張藩領となる。慶安四年(一六五一)の人数二五六、馬一六(明暦覚書)。元禄郷帳に高三八石余とある。「濃州徇行記」では高一一二石余、家数五六・人数二五七、馬九。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]五泉市船越、新津市船越

早出はいで川と能代のうだい川に挟まれた低地にあり、東は下条しもじよう村、西は猿橋さるばし村と接する。室町時代初期には当村の開発者といわれる地濃家の先祖が土着したと伝え、現五泉―新津道の傍らには慶長元年(一五九六)の銘をもつ地濃帯刀の墓石が残る。同三年村上藩領となり、元和五年(一六一九)の菅名下条せき普請可仕村々覚(伊藤家文書)に村名がある。正保国絵図に一八〇石余とあり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高三四四石二斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、以後高田藩領・白河藩領・幕府領などを経て天保元年(一八三〇)沼津藩領となる。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]中之口村東船越ひがしふなこし

なか村の北に連なる。元来小吉こよし村の一部。元和九年(一六二三)船越村久右衛門新田として分離、のち船越村と称したという。同年の年貢割付状(小吉村誌統計類纂)に船越村とみえ、高六五石三斗余・八歩取・取米五石二斗余とある。寛永一三年(一六三六)の新潟与亥御成ケ本帳(菊屋文書)によれば前年に一四石二斗余の年貢米を上納し、同一八年の新潟与巳割付本帳(同文書)には村高は変わらず免四ツ六分・取米三〇石余とある。同帳には船越久右衛門新田とし高一八七石八斗余・免四ツ・見取八斗余を合せ取米合計七六石余が記されるが、当村との関係は不詳。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]郷ノ浦町麦谷触むぎやふれ

渡良わたら浦の東部に位置する。承和二年(八三五)新羅商人の来航が頻繁であるとして船越など一四ヵ所の崎に要害が設けられ、兵仗を帯した徭人をもって守らせたという(壱岐名勝図誌)。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)では物部ものべ庄のふつ(現物部布都神社)の社領九四町のうちとして船越村とあり、同年とされる壱岐国七社神領敷地定書(同書)では鴨打氏の領知とする。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]加須市船越

北は青毛堀あおげぼり川を境に花崎はなさき村、東は水深みずふか村、南は新川につかわ用水路を境に大室おおむろ村と対する。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に「五十貫文 舟越若狭」「三十貫文 舟越平内」「二十貫文 舟越彦四郎」などがみえ、舟越氏を当地出身の武士とする説がある。騎西きさい領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高七六石余・畑高二一三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二八九石余、反別は田方八町七反余・畑方二三町二反余、新開高九一石余、反別は田方二町七反余・畑方七町余。

船越村
ふなこしむら

[現在地名]佐世保市船越町・下船越町しもふなこしちよう

山口やまぐち村の中ほど、たわらうら半島の基部に位置する。西部は九十九島くじゆうくしま湾に臨む。地名は船荷を下ろし、船を担いで越えたことに由来するといわれ、上船越・下船越に分れる。眼畠まなこばたけの石塁は中世城館の遺構とされる。江戸時代は相神浦山口あいこのうらやまぐち村のうちで、正保国絵図に船越村とあり、高一六一石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では相神浦大里あいこのうらおおざと(山口村)内に船越免と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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